12月 出来事

12月9日 <王政復古の大号令が発せられる(1867年=慶応3)>

2016/12/10

今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1866年(慶応2)に行われた第2次長州征討に失敗し、江戸幕府の権威は地に落ちてしまいましたが、第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)のあと第15代将軍となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、フランス公使ロッシュの協力を得て幕政改革を行いました。中央集権的な政治体制を築くための職制の改変と、フランスから士官を招いての陸軍の軍制改革がその中心でした。

 

しかし、幕府は長州征討の処理を巡り薩摩藩と衝突し、1867年(慶応3)、薩長両藩は遂に武力倒幕を決意しました。武力倒幕の機運が高まるなか、公武合体の立場をとる土佐藩では、藩士の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と坂本竜馬(さかもとりょうま)とが図って、前藩主の山内豊信(やまうちとよしげ)を通して、将軍慶喜に倒幕派の機先を制して政権の奉還を行う様に勧めたのでした。

 

慶喜もこの策を受け入れて、同年10月14日、大政奉還を申し出て、その翌日、朝廷はこれを受理しました。これは、将軍から政権を朝廷に返し、朝廷のもとに徳川氏を含む諸藩の合議による連合政権を作ろうという公議政体論に基づく動きで、これによって倒幕派の攻撃をそらし、徳川氏の主導権を維持しようとする狙いが込められていました。

 

ところが、同じ10月14日、武力倒幕をめざす薩長両藩は、朝廷内の急進派の公家岩倉具視(いわくらともみ)らと連携して画策し、討幕の密勅を引き出していたのです。大政奉還後の政局は、薩長両藩の武力倒幕論に対抗して、土佐藩などの主張する公議政体論が台頭してきていました。公議政体論とは雄藩の連合政権論ですが、実質は将軍を議長とする諸侯会議の構想で、徳川氏の主導権を認める内容でした。

 

薩長両藩は、この公議政体論をおさえて政局の主導権を握るため、両藩兵を集結させてきびしい警備をして、1867年(慶応3)の今日に政変を決行しました。いわゆる王政復古の大号令を発し、徳川氏を除く新しい政府をつくったのです。

 

新政府は、幕府や朝廷の摂政・関白を廃止し、天皇のもとに総裁議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職を設置しました。ここに260年余り江戸幕府は否定され、「諸事神武創業の始」に基づくことをかかげた、天皇中心とする新政府が樹立されたのです。

 

総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)、議定には皇族・公卿と松平慶永や山内豊信らの諸侯10名、参与には公家からは岩倉具視、雄藩の代表として薩摩藩からは西郷隆盛・大久保利通、土佐藩からは後藤象二郎・福岡孝弟、長州藩から木戸孝允・広沢真臣らが任じられ、雄藩連合のかたちをとりました。

 

その日の夜、京都御所の小御所で三職による小御所会議が開かれて、徳川氏の処分が議論され、岩倉具視・大久保利通らの武力倒幕派が松平慶永・ 山内豊信らの公議政体派を圧倒し、徳川慶喜に内大臣の辞退と領地の一部返上(辞官納地)を命じることを決定しました。このため、慶喜は大坂城に引き上げ、新政府と武力対決することになりました。

 

1867年(慶応3)の今日出された王政復古の大号令を以下にご紹介します。

徳川内府、従前御委任大政返上、将軍職辞退之両條、今般断然聞(きこ)し食(め)され候。抑(そもそも)、癸丑(きちゅう)以来、未曾有(みぞう。みぞうゆうではありません)之国難、先帝頻年宸襟(ひんねんしんきん)を悩され候御次第、衆庶之知る所に候。之に依り 叡慮(えいりょ)を決せられ、王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今摂関、幕府等廃絶、即今、先す仮に総裁・議定・参与之三職を置かれ、萬機行はせらるべし、諸事神武創業之始ニ原(もとづ)き、縉紳(しんしん)、武弁、堂上(とうしょう)地下(じげ)之別無く、至当之公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同しく遊さるべき叡慮に付き、各(おのおの)勉励、旧来驕惰(きょうだ)之汚習を洗ひ、尽忠報国之誠を以て奉公致すべく候事。

(法令全書から引用。ひらがな追加は小生です)

徳川内府とは内大臣のことで、徳川慶喜を指します。

癸丑とは、1853年(嘉永6)のことで、この年に「いやでござん(1853)すペリーさん」で覚える黒船来航がありました。

先帝は孝明天皇のこと。

縉紳とは公家のこと。

武弁とは武家のこと。

堂上とは昇殿を許された五位以上の人のこと。

地下とは六位以下の人のこと。

 

今日はここまでです。

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