1603年(慶長8)のこの日、徳川家康が、江戸幕府を開きました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代は、徳川将軍家が日本を統治していた時代です。1603年(慶長 8)2月12日に、その江戸時代が始まりました。
徳川家康の待つ伏見城に、朝廷の勅使が到着したのは、朝方の雨も上がった午前10時頃でした。告使が庭で
「御昇進! 御昇進!」
と二度唱えて儀式が始まり、家康を征夷大将軍に任命する宣旨が渡されました。
この時、徳川家康は62歳でした。 家康が、関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、同じ官職制度のなかで豊臣秀頼と競うのを避け、いち早く豊臣政権から独立し、諸大名を戦争に動員し、指揮する武家の棟梁たる地位の正当性を獲得する為でした。
この日に始まった江戸幕府は、1867年(慶応3)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還(たいせいほうかん)までの265年間続き、その間将軍は15代を数えました。
家康は、まず全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請を命じて主従関係をはっきりとさせ。次いで翌年1604年(慶長9)には、家康は国単位に国絵図(くにえず:国単位の絵図…まんまですね)と郷帳(ごうちょう:村名・村高を記した帳簿で、田畑の状態や山林など詳細に記録された土地台帳)の作成を命じて、全国の支配者であることを示しました。また東海道・中山道などの主要街道の施設を整備し、京都・伏見・大坂・堺・長崎などの都市や港を直轄地とし、また石見(いわみ)の大森(おおもり)・但馬(たじま)の生野(いくの)・佐渡・伊豆の金・銀山も直轄にするなど、全国統一の政策を着々と進めました。
その徳川家による治世が安定し「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる平和の時代が訪れるのには、まだ1614~15年に起こる「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」とによって豊臣家が滅亡するのを待たねばなりませんでした。
家康が作らせた国絵図は、道筋は赤、川筋は紺青、郡境は紫、山は緑青などの色使いを統一し、全村名と村高とが楕円の中に几帳面に書き込まれたものでした。この国絵図は作図上の縮尺に対する統一基準はありませんでした。そこまで気が回らなかったのでしょうか…。
しかし、その40年後の1644年(正保元)に第3代将軍徳川家光が作成を命じた国絵図では、縮尺を統一したのです。1里(約4km)を6寸(18cm)に縮小させたので、1/21,600の縮尺で国絵図の作成を命じたワケです。
そうして作られた全国66ヶ国の国絵図は幕府に納められ、これらをつなぎ合わせると巨大な日本国総図を作ることが出来たそうです。この後も1697年(元禄10)、1831年(天保2)にも国絵図・郷帳の提出が全国の大名に命ぜられ、後年になればなるほど作図の精度は高くなったそうです。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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