2月 出来事

2月2日 <浄瑠璃坂の敵討ち(1672年=寛文12)>


今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1.出来事ピックアップ

 

1672年(寛文12)の今日、宇都宮藩の元家臣奥平源八ら70余人は、江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で、旗本屋敷に潜んでいいた親の敵(かたき)である奥平隼人(おくだいらはやと)を見事討ち果たしました。

 

2.解説

 

この出来事は、1672年(寬文12)2月、元宇都宮藩家老奥平内蔵介(おくだいらくらのすけ)の遺児源八らが江戸市ケ谷浄瑠璃坂の戸田七之助屋敷を襲撃し、父の敵である元同藩家老の奥平隼人を討った、というもので、江戸時代で最も大規模な敵討ちです。

 

事の発端は1668年(寬文8)2月、宇都宮城主奥平忠昌の死去に際していざこざがあったのです。

 

忠昌の葬儀を宇都宮の興禅寺で営んだとき、その戒名について、家老の奥平隼人(おくだいらはやと)と同じ家老の奥平内蔵介(おくだいらくらのすけ)とが言い争い、隼人が嘲弄したので、内蔵介が脇差を抜いて切りかかり、隼人も抜き合わせたところ、大力の兵藤玄蕃(ひょうどうげんば)が中に入って遮り、両人は親類預けとなりました。

 

内蔵介はそこで切腹をして、隼人にも切腹させようとしたのですが、隼人は、内蔵助は乱心者だからと申し張ってきかなかったのです。これが幕府の知るところとなり、隼人と内蔵介の子の源八は改易になってしまいました。改易とは、武士の身分剥奪と家禄没収との厳罰です。

 

本来ならば、この事件で奥平家も厳罰になるところを、忠昌の祖母は家康の長女の加納殿であったから、減封で済んだそうです。

 

1670年(寛文10)7月に、浪人となった12歳の源八らは、山形に住む隼人の弟主馬を討つこととし、上ノ山で首尾を果たし、無事に江戸に帰りました。そして、隼人がいた旗本の大久保助右衛門(おおくぼすけえもん)の宅へ、主馬の首に添状をして、その書院に投げこんだのです。隼人は果たし状を突きつけられて、そこにいることができず、市ヶ谷の浄瑠璃坂の上にある戸田七之助屋敷へ転宅しました。

 

1672年(寛文12)2月2日の夜、源八は70余人の集団で江戸に入り、着込(きごみ:上衣の下に着る鎖帷子、くさりかたびら)に、うしろに丸に一文字を墨でつけて紋にした自木綿(しろもめん)の袖なし羽織を一様に着し、花火松明50本を持ち、隼人のいる近所へいって松明に火を付け「火事」と言いながら、門を掛矢で打ち破って、高音に敵討の意趣を名乗ったのでした。

 

隼人方は寝込みをおそわれ、上を下への騒ぎになり、隼人の父大学をはじめ9人が討たれました。明松の火が見えたので、定火消役の堀田五郎左衛門がやって来ましたが、敵討と聞いて組の者をつれて引き取ったそうです。また、近所に徒目付(かちめつけ)3人もいましたが、これも断りを聞いてそのまま見物していたということです。

 

源八方では、隼人を討ちもらして夜明にがっかりして引き上げたところを、隼人が手勢を率いて槍をもって追いかけてきたので、牛込の土橋(どばし)のきわで両者は対決し、隼人は討ちとられたのでした。

 

源八はそのまま引き上げましたが、幕府で捜査をしていると聞いて、20日になって、大老の井伊掃部頭直澄(いいかもんのかみなおずみ)の宅へ名乗り出て、加勢は頼まず、すべて自前の人数で討ちとめたと申し出ました。老中協議の際、直澄も助けようとしましたが、隼人の家のまわりに茅を積んで火を放ったということもあり、伊豆大島へ流されました。

 

八らは、1678年(延宝6)の天樹院(千姫)の十三回忌の法会のときに赦免され、井伊家に召し抱えられて彦根に行きました。

 

この出来事は、将軍のお膝下の江戸で行われた大きな敵討として当時から著名で、この討入のときのようすがのちに赤穂浪士の参考になったのではないかとも考えられています。

 

そして、後世にも語りつがれ、1744年(延享元)には 『浄瑠璃坂幼敵討(じょうるりざかおさなかたきうち)』と題して歌舞伎で初演されました。また、明治期以後は塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん)や中里介山がこの事件を題材にした歴史小説を発表しています。

 

 

日本三大敵討ちと称されている敵討ちがありまして、それは以下の3つです。

  • 浄瑠璃坂の敵討ち
  • 曽我兄弟の敵討ち
  • 赤穂浪士の敵討ち

 

今日はここまでです。

↓↓↓ご一読されたらこちらも応援を一発ポチッ!とな…とお願い申し上げます!

日本ブログ村

人気ブログランキング

-2月, 出来事
-

Translate »