1635年(寛永12)のこの日、江戸幕府第3代将軍徳川家光は自ら対馬藩主宗義成(そうよしなり)とその家臣柳川調興(やなぎかわしげおき)とを糾問し、その争いを採決しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代初期、16世紀末に行われた、豊臣秀吉による文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵によって、日朝関係は断絶状態にありました。徳川家康が江戸に幕府を開いたのち、国交回復を模索し、江戸幕府は日本と朝鮮との中間に位置する対馬藩に、朝鮮との外交交渉を委託しました。
国交(回復)交渉において、対馬藩は、日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を行ったのです。
1605年(慶長10)、
- 朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出しました。
- それに対し朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と虚偽の報告)を派遣しました。
- その回答使の返書も、朝鮮から先に国書を送ってきた様に改ざんしました。
- さらに「将軍」を「日本国王」と書いて居たのも改ざんしていました。
この他にも、1617年(元和3)、1624年(元和10)における交渉でもそれぞれ国書偽造・改ざんを行っていました。
実は、この対馬藩家老の柳川調興は、対馬藩から独立して直参旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立していました。そのため、対馬藩の国書偽造・改ざんを、幕府に対して暴露し、宗義成を糾弾したのです。
1635年(寛永12)のこの日、江戸にいる1,000石以上の旗本と大名が総登城し、江戸城大広間において第3代将軍徳川家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われました。
その結果、偽造の中心人物が家老の柳川調興であることが判明しました。そして、本来であれば、対馬藩宗氏は改易となるところ、幕府としてはそれまで通り日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、家みつは、宗義成を無罪、柳川調興を陸奥国津軽に流罪と裁定しました。この出来事は、当事者の片方の柳川調興の名前をとり、「柳川一件」と呼ばれる出来事です。
柳川調興は、津軽藩に流されたものの、同地で軽からぬ扱いを受け、生涯を送ったそうです。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2017年記事:<名門武田氏が滅亡(1582年=天正10)>
今日はここまでです。
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