1182年(寿永元)のこの日、源頼朝は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜への道が曲がっていたのを参詣道として作り直させました。
これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
「吾妻鑑(鎌倉時代の歴史書)」の1182年(寿永元)3月15日の記事には以下の様な内容が書かれています。
「鶴丘社頭より由比浦に至るまで、曲横を直して詣往の道を造る。是日来御素願たりといえども、自然日を渉る。而るに御台所御懐孕の御祈に依る故に、此儀を始めらるるなり。武衛自らこれを沙汰せしめ給う。仍って北條殿已下、各土石を運ばる。 」
(website「鎌倉の古道物語」から引用)
この時作った参詣道が現在、若宮大路と呼ばれる由比ヶ浜海岸から鶴岡八幡宮に向かって約1.8kmのほぼ一直線の道です。
吾妻鑑にあるように、これを作ったきっかけは、妻の政子(北条政子)が無事に出産するように祈るためにでもあったのです。すなわち妻の安産を祈願する為に八幡宮の参詣道を整えたんですねぇ。チョトした愛妻家だったのですよ。また、政子の父親の北条時政も、この道をつくる工事に参加して、自ら土や石を運んだとも書かれています。
その道の形状は非常に特徴があり、中央に二筋の葛石を置き、その間を高くした「段葛」と呼ばれる形が取られており、それは道の上に一段高い道がある…というものです。その形状を取った背景には、
- 若宮大路の通るあたりは、滑川沿いの低い土地で、水をかぶる事もあった為に、参詣道を一段高くした
- 幕府が外敵の攻略に備えやすい形状にした
などののが考えられています。
この若宮大路は、平安京の朱雀大路を模したもので、鎌倉の都市計画の一環としても重要なものであったようです。すなわち、幕府に要所は若宮大路の東側に集中しており、また若宮大路の東側は高く、西側は低くなっていることからも、上述した攻略に備えるという防衛上の工夫が都市計画に盛り込まれていることが伺えます。
さらに、この若宮大路は由比ヶ浜側から鶴岡八幡宮に向かって道幅が狭められており、そうすることで、海側から将兵の大軍が押し寄せてきても動きにくくなる為、これまた防衛面を考慮した設計であった様です。
この参詣道には、1917年(大正6)の補修の際に植えられた見事な桜並木が見られます。今日3月15日から二週間もすれば桜の花も見頃になっているかもしれません。その両側には賑やかな、あるいは小洒落た店もあり楽しいですよ。また、少し足を伸して古都鎌倉の風物に親しむのも良いし、テーマを持って古道散策なども興味深いものです。鎌倉というのは、東京に住む小生にとっては行きやすい絶妙の距離にある好きな土地なのです。
今回の記事は、小生が持っている資料では全く不足しており、ネット上を色々と調べる過程で感銘を受けたサイトがあったので以下にご紹介申し上げます。考証が綿密でしっかりしており、アカデミックで素晴らしいサイトだと思いました。是非、ご覧下さい。
サイト名:道・鎌倉街道探索日記
記事名:鎌倉の古道物語
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<東京都の区部を22区に整理・統合(1947年=昭和22)>
今日はここまでです。
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