3月20日 <水俣病、熊本地方裁判所が原告全面勝訴の判決(1973年=昭和48)>

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1973年(昭和48)のこの日、四大公害訴訟のひとつ水俣病裁判の判決が熊本地方裁判所で出ました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1950年代半ばから70年代初めにかけて、日本は驚異的な経済成長を遂げました。その期間、日本の実質GNP(国民総生産)は年率10%以上の成長率を維持していました。

 

朝鮮戦争による特需景気によって1955年(昭和30)の日本経済の主要指標は第二次世界大戦前の最高水準を超え、それに続いて1955年(昭和30)から57年(昭和32)の神武景気、1958年(昭和33)から61年(昭和36)の岩戸景気、1962年(昭和37)から64年(昭和39)のオリンピック景気、1965年(昭和40)から70年(昭和45)のいざなぎ景気が間断なく続きました。

 

こうした経済の高度成長は家電製品を急速に普及させ、1950年台後半には三種の神器と呼ばれた白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が、そして1960年代後半には3Cと呼ばれた車(Car)・クーラー(Cooler)・カラーテレビ(Color television)が日本人の日常生活に消費革命をもたらしました。そのことが、工業の発達に大いに寄与したといえましょう。

 

また、食生活でも大きな変化が訪れました。肉類や乳製品が普及し、食生活の洋風化が進み、また、インスタント食品・冷凍食品といった量産できる規格化した食品が浸透したことで食品産業も発達を遂げました。

 

しかし、あまりにも急速な工業化は、地域社会に深刻な影響も及ぼしました。生産面の技術革新によって企業に多大な利益をもたらした工業化も、それに伴う有害な副産物への対処法を日本はまだ確立できていませんでした。そのため、工業地帯では大気汚染・水質汚濁・騒音・地盤沈下などの公害問題が次々と顕在化しました。

 

このような状況下で、1960年代には、被害者が企業を告発した四大公害訴訟が起こされ、1971年(昭和46)から73年(昭和48)にかけて、原告側勝訴の判決が相次ぎました。

 

ちなみに、四大公害訴訟とは以下の4つです。

  1. 水俣病(熊本):チッソ水俣工場排出の有機水銀中毒による被害
  2. 新潟水俣病(新潟):昭和電工が排出した有機水銀中毒による被害
  3. イタイイタイ病(富山):三井金属排出のカドミウム中毒による被害
  4. 四日市ぜんそく(三重):石油化学コンビナート排出の亜硫酸ガスによるぜんそくなどの被害

1973年(昭和48)3月20日、四大公害訴訟の最後となった水俣病裁判の判決が出ました。

 

この熊本第一次訴訟で、被告のチッソは

「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」

 

と主張していましたが、判決はこれについて

化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する

 

として、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にし、チッソ水俣工場の過失責任を認め、患者一人当たり最高1,800万円の一時金、総額9億3730万円の損害賠償を命じ、これは原告側全面勝訴の内容でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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