1633年(寛永10)のこの日、江戸幕府第3代将軍徳川家光は、6人の側近集団に小事を合議・執行させる事としました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1633年(寛永10)3月23日、江戸幕府第3代将軍徳川家光は、小姓組番頭に任じられていた松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗(おおたすけむね)・阿部重次の6人を召して
「これからの小事については6人で相談してはからうように」
と命じました。
かれらは「小姓組」という役職からもわかるように、いずれも家光の小姓を勤めた側近で、以後6人衆と呼ばれて老中酒井忠勝(さかいただかつ)・土井利勝(どいとしかつ)の下で幕政の中核をになうことになりました。
翌1634年(寛永11)にはさらに具体的に、旗本の掌握、京・大坂・駿府などの城番・役人に支配を命じており、この職掌は若年寄にあたるものです。それゆえ、この六人衆は若年寄の起源とされています。ちなみに、若年寄という呼称が使われはじめたのも、この1634年(寛永11)年頃とされています。
江戸に開府してから3代目のこの頃が、江戸幕府の政治体制が確立された時期で、この年、まさに年寄衆(老中)と六人衆(若年寄)との職務分掌が規定されました。
なお、六人衆のうち松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・阿部重次の4名は後年老中に昇進しています。また堀田正盛と阿部重次とは、1651年(慶安4)に徳川家光が死去したときに、殉死しています。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<足利義満、花の御所へ移る(1378年=永和4)>
今日はここまでです。
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