1784年(天明4)のこの日、若年寄田沼意知(たぬまおきとも)は、江戸城退出のため中之間へでたところ、佐野政言(さのまさこと)から切りつけられて重傷を負いました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1784年(天明4)のこの日、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の嫡子、若年寄の田沼意知は、江戸城退出のため中之間に出ました。すると桔梗間に控えていた新番組の佐野善左衛門政言がいきなり飛びかかり
「覚えがあろう!」
と3度も声を掛けながら肩先に切りつけ、股を刺しました。意知は自邸に運ばれましたが、その傷がもとで同年4月2日に世を去りました。
この刃傷の原因は、佐野政言の私怨によるものだったのです。
調べると、とんでもない仕打ちを、政言は受けていたのですよ。
上野国甘楽郡で400石を領していた佐野家は、鎌倉時代からの名門でした。その家系の上では、その頃、並びない権勢を誇っていた田沼意次・意知は佐野家の家来筋だったのです。
そこで、政言は、田沼意知に賄賂を贈って立身出世を図ったのです。しかし、意知は政言から賄賂を受け取ったものの、その願いを聞き入れようとしないばかりか、佐野家重代の七曜旗や系図を奪い取ってしまったのです。
それだけではありません。
1783年(天明3)12月、政言が将軍徳川家治に従って鷹狩に行った際、雁1羽を射落としたにも関わらず、本人が射ていないという理由で、獲物を射た他の者には褒美が与えられたのですが、政言には与えられなかったのです。
その他、依怙贔屓などもあり、こうした数々の私憤が積もり積もって、政言は遂にブチ切れ、江戸城内で意知に切りつけて重傷を負わせるに至ったのです。政言は即座に揚座敷に入れられ、意知の傷が癒えずに他界すると、その翌日の4月3日に切腹を命ぜられました。
当時、田沼意次父子を妬むものも多く、人々は加害者の政言を「世直し大明神」と呼んではやしたてたそうです。その後、この事件に関する落書や落首が数多く世間に流布するとともに、田沼政治批判の声が一層強まり、これをきっかけに田沼政権が没落を始めて行きました。
ところで、この政言に意地悪をした田沼意知ですが、結構有能な人物だったそうなんですよ。当時日本にいたヨーロッパ人たちは次の様に評していました。
「父親のほうはもう年をとっているので間もなく死ぬだろう。(中略)しかし息子(田沼意知)はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行する時間がある」
(ティチング「日本風俗図誌」)
また、この日本風俗図誌には、そうした理由から、反対派が意知の暗殺を図ったのだ、とも記されています。
事の真偽はともかくとして、恨みを買うような事をするのは怖いですねぇ。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2017年記事:<壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡(1185年=文治元)>
今日はここまでです。
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