3月3日 <嫌よ嫌よと拒むのに、無理矢理アメリカは…日米和親条約締結(1854年=安政元)>

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1854年(安政元)のこの日、江戸幕府はアメリカ使節ペリーと日米和親条約を締結しました。これは「神奈川条約」とも呼ばれています。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1854年(安政元)1月11日、軍艦7隻を率いて浦賀沖に再来航していたアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーは、江戸湾の測量を行うなどの軍事的な圧力を掛けつつ、条約の締結を幕府に迫っていたのです。

 

幕府は、林復斎(はやしふくさい)、町奉行井戸覚弘(いどさとひろ)、目付鵜殿長鋭(うどのながとし)らを委員として、ペリーとの交渉に当たらせました。当初幕府は「ぶらかし」策といわれる、のらりくらりと確答を与えない行動をとって、ペリー艦隊を退去させようとしていました。

 

そんな事に動ずるペリーではなく、同年2月10日に第一回の横浜交渉が行われ、ついで数回の正式交渉ののち、ついに調印の日を迎えました。

 

1854(安政元)年3月3日、ペリー一行は楽隊を先頭に横浜に上陸します。幕府がその米国側の威力に屈し条約を結ぶことにしたからです。日米和親条約の調印式は、現在の横浜開港資料館の場所に臨時に設置された応接所で行われました。この場所が、神奈川宿の近くだったので神奈川条約とも呼ばれています。

 

条約は12ヶ条からなり、

  • 第二條:アメリカ船が必要な物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港すること。
  • 第三條:遭難船や漂流民を救助し、引き渡すこと。
  • 第九條:片務的最恵国待遇 などを取り決めています。

ここに二百数十年続いた外国との交渉を限定的にしていた状態、いわゆる鎖国の状態が解かれたのです。

 

ちなみに、最恵国待遇とは、日本がアメリカ以外の国と結んだ条約で、日本がアメリカに許したよりも有利な条件を認めた時は、アメリカにも自動的にその条件を適用する事を言います。この日米和親条約では、相互に最恵国待遇を与えるのではなく、日本がアメリカに対して一方的(片務的)に与えるという甚だ不平等なものでした。

 

この条約を契機にして、まもなく日英・日露・日蘭の和親条約も締結されていくのです。

 

以下に貼りつけたリンクは、日米和親条約の全文です。これはWikipediaの情報です。

日本國米利堅合衆國和親條約(にほんこくめりけんがっしゅうこくわしんじょうやく)

 

ところで、 東京にあるお台場、あれは1853年(嘉永6)にペリーがやってきて開国を迫ったのを受け、

 

「こいつはヤヴァイ!」

 

と感じた幕府が、国防充実の為作らせたものなんですねぇ。工事は突貫工事で進められ、1854年(安政元)正月にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれていたのです。その時、ペリー艦隊は品川沖までやってきましたが、この砲台があったために横浜まで引き返しました。お台場の「お」は、幕府に対して敬意を払い「御」をつけて「御台場」と呼ばれたことに由来するそうです。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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