4月25日 <ああ、憧れのハワイに最初の移民が出発(1868年=明治2)>

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1868年(明治2)のこの日、日本から初めてハワイに移住する人々が、横浜港から出発しました。悪徳ブローカーに騙されての移住で、現地では悲惨な生活が待っていました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

晴れた空ぁ〜 そよぐ風ぇ〜 港ぉ出船のぉ ドラの音愉しぃ〜

とまぁ、これは1948年(昭和23)に発売された「憧れのハワイ航路」という曲の出だしですが、ハワイといえば、今も根強い人気を持っている観光地ですが、今回は、そのハワイへ移住した人の話です。

 

日本とハワイとの関係は、1804年(文化元)に太平洋を漂流中の仙台藩の船頭、津太夫ら5名が、外国船に救助されて上陸したのがはじまりとされています。現在はアメリカ領のハワイですが、アメリカの場合も、太平洋を漂流の末、ハワイに到着しており、日本と同じような経緯でハワイに接していたそうです。

 

正式な交流が始まったのは、修好通商条約が結ばれた1872年(明治5)からです。

 

その当時、ハワイでは主力産業のサトウキビ栽培で労働力が不足しており、その為、移民を望んでいました。

 

横浜居留地に住む外国人のなかには、こうした情報を耳にして、情弱な日本人を相手に一儲けをたくらむヴァン・リードという悪徳ブローカーが現われて、移民募集に狂奔していました。

 

彼は、ペンシルベニア州の出身で、1859年(安政6)ごろ横浜にやってきて、厚かましくも駐日ハワイ領事を自称し、横浜埋立地93番地で翻訳新聞を発行していました。そこにいいことずくめの募集記事を書いて移民熱を煽り立てたのでした。

 

リードは、1868年(明治2)4月25日、こうして集めた岡山出身の石井仙太郎ら情弱希望者153人(男:143人、女:9人、子供:1人)をイギリス船シオト号に詰めこみ、 日本政府の許可なく横浜港から出帆させました。

 

新聞の募集広告では、契約移民として1か月4ドルの給料や就労条件が前もって定められていたにもかかわらず、いざ現地につくと約束が履行されないのみか、アフリカの黒人奴隷なみに酷使され、体をこわす者や病死者が相次ぎました。 このため、日本政府はあわてて船を送り、1869年(明治3)2月に帰国希望者を連れもどしました。

 

それ以後、1885年(明治18)1月に、官約移民として第一回渡航者945名がアメリカ船で出発するまで、ハワイへの移住者は一旦途絶えました。

 

冒頭に載せた、「憧れのハワイ航路」は昔、小生が勤務していた会社の上司がカラオケで時々歌っていました。その上司はヨットマンでケンウッドカップなどにも参戦していたほどの凄腕だったんですよ。この歌の歌詞、なかなか良いと思います。歌詞を以下に貼り付けておきます。夢があって、前をみて歩く感じがします。

 

「憧れのハワイ航路」
作詞:石本美由起
作曲:江口夜詩

晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し
別れテープを 笑顔で切れば
望みはてない 遥かな潮路
ああ あこがれの ハワイ航路

波の背を バラ色に 染めて真赤な 夕陽が沈む
一人デッキで ウクレレ弾けば
歌もなつかし あのアロハオエ
ああ あこがれの ハワイ航路

常夏の 黄金月 夜のキャビンの 小窓を照らす
夢も通うよ あのホノルルの
椰子の並木路 ホワイトホテル
ああ あこがれの ハワイ航路

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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