4月7日 <道鏡、左遷先の下野国で没する(772年=宝亀3)>

スポンサーリンク

772年(宝亀3)のこの日、その2年前に造下野国薬師寺別当として左遷された道鏡が、同地で没しました。

これは奈良時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

このBlogで道鏡の事を記事にするのは2度目です。

前回記事:9月20日 <道鏡を大臣禅師とする(764年=天平宝字8)>

 

一寸、道場についておさらいしましょう。

道鏡は、河内国の弓削連(ゆげむらじ)氏出身で、サンスクリットの経典研究を行い、修行に打ち込んだのち、宮中の内道場(ないどうじょう)に入り禅師(ぜんじ)となりました。

761年(天平宝字5)に孝謙太上天皇の看病に成果を上げてその寵愛を獲得し、それが太上天皇と淳仁天皇との対立となり764年(天平宝字8)に恵美押勝の乱が起こりました。

恵美押勝を倒して再即位した称徳天皇の代になると、道鏡は天皇の信任を受け、765年(天平神護元)には太政大臣禅師、翌766年(天平神護2)には法王となって天皇に準ずる待遇を受け、権力を握り、仏教政治に権勢を発揮しました。

ところが、770年(宝亀元)に称徳天皇が崩御すると、天皇の信任以外に政治的基盤を持たなかった道鏡の立場は暗転してしまいます。

そして、女性天皇として皇位継承者を定めなかった称徳天皇の後継を決める群臣会議では、藤原百川らが中心となり、それまで続いた天武天皇系の皇統にかわって、天智天皇の子施基皇子(しきおうじ)の子である光仁天皇を即位させることになり、道鏡は下野国薬師寺の別当として追放されてしまいました。

 

そして、772年(宝亀3)のこの日、道鏡は失意のまま同地下野で世を去りました。

 

この道鏡、結構なインチキ野郎だったみたいで、766年(天平神護2)に法王になった時は、同年10月、道鏡配下の僧基真が隅寺(海竜王寺)の毘沙門天像胎内から、立派な仏舎利が出現したのです。称徳天皇は、

「道鏡の政治がすぐれているからだわ!」

と喜び、道鏡を法王に任じ、その月料は天皇の供御に準じたのでした。ところが、この仏舎利が出てきた、という話は基真の詐欺だということが後になって判ったそうです。

配下の者にデタラメを上申させて、自分が出世したワケですね。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
4月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!