1569年(永禄12)のこの日、織田信長ははじめて宣教師のルイス・フロイスに面会し、その京都居住と布教を許可しました。
これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
京都でのキリスト教の布教活動はなかなか進みませんでした。1549年(天文18)フランシスコ・ザビエルが来日して以降、北九州への布教は進み、その影響は畿内にも及ぶようになっていました。
そして1559年(永禄2)には、ガスパル・ビレラが比叡山の僧侶の招きによって入京し、民衆の嘲笑や僧徒の迫害にもめげず布教につとめた結果、ついに1560年(永禄3)室町幕府第13代将軍足利義輝から布教の認可を貰ったのでした。
1565年(永禄8)1月には新しく長崎の平戸から宣教師ルイス・フロイスが着任し、足利義輝から厚遇を受けています。しかし、同年5月に、義輝が松永久秀らに亡きものにされると、状況は一変します。京都の法華宗徒たちがキリスト教弾圧を行い、同年8月2日には、宣教師追放令が出され、フロイスは堺まで退かざるを得ませんでした。
この様な経緯もあり、その当時、京都で足利義昭の為に二条の館を造営をしていた織田信長が、このキリスト教をどのように扱うか、さぞ注目されていたことでしょう。
信長は、摂津芥川城主の和田惟政(わだこれまさ)の紹介で堺から入洛したフロイスを一度は拒否しました。ところが、和田惟政も粘り強く信長に頼み込んだ結果、1569年(永禄12)4月8日織田信長とルイス・フロイスとの面会が実現したのでした。
この面会のあと、フロイスは同年6月1日付のローマ宛の書簡で信長についてこのように書いています。少し長文ですが、面白いですよ。
この尾張の王は、年齢37歳なるべく、長身痩躯、髭少し、声ははなはだ高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術に巧みにしてほとんど規律に服せず。部下の進言にしたがうことも稀なり。かれは諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、みずから奉ずることきわめて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するがごとく肩の上よりこれに語る。諸人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。よき理解力と明晰なる判断力とを有し、神仏その他偶像を軽視し、異教のいっさいの卜(うらない)を信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折を悪(にく)めり
こういった信長の個性が見事に描かれた文章で、フロイスの観察眼は鋭かったんですねぇ。最初は会うのに気が進まなかった信長ですが、会うと、フロイスを質問攻めにして1時間半〜2時間も語り合ったそうです。
この話は面白いので、また来年のこの日に!
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<信長、ルイス・フロイスを質問攻め(1569年=永禄12)>
今日はここまでです。
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