5月1日 <徳川家康、二条城造営に着手(1601年=慶長7)>

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1601年(慶長7)のこの日、徳川家康は京都に二条城の造営に着手し、総奉行に京都所司代板倉勝重を任じました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

実は、二条城には2つの城があるのです。それは、以下の2つです。

  • 織田信長が、1569年(永禄12)、現在の上京区に足利義昭の居館として築いた城
  • 徳川家康が、1601年(慶長7)に、現在の中京区に築いた城

織田信長が築いた二条城は、1573年(天正元)の室町幕府の滅亡とともに廃城しています。

家康の二条城は、1601年(慶長7)のこの日、造営に着手していますが、総奉行に京都所司代板倉勝重を任じ、作事は大工頭中井正清率いる大工集団が当たりました。資材や人夫の調達については前年12月に西国諸大名に命じていました。

この城は、江戸幕府の京都警衛、将軍上京時の宿所、儀礼用の場として造られたもので、翌1602年(慶長8)3月に竣工し、その前月12日に征夷大将軍に任じられたばかりの家康が入場し拝賀の礼を行っています。

 

この時造られた二条城の規模は現在の東半部で、1611年(慶長16)には、二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見が行われました。

現在の規模になったのは1624年(寛永元)で、徳川家光により天下普請で拡張された時です。

本来は五層の天守閣を持つ城でしたが、1750年(寛延3)、落雷によって天守閣を焼失し、さらに天明8年(1788年)の「どんぐり焼け」と呼ばれる大火では本丸御殿、隅櫓などを焼失し、それらは以後再建されませんでした。

 

1867年(慶応3)に第15代将軍徳川慶喜による大政奉還の舞台となったのも、この二条城です。ある意味、江戸時代を見続けた歴史の証人でもあるんですねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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