5月 出来事

5月17日 <オランダ商館、出島に移転(1641年=寛永18)>

2018/05/17

1641年(寛永18)のこの日、平戸にあったオランダ商館は出島に移されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

出島…日本史のなかで、とても重要な地名の一つですが、読み方…どんな風に読んでいらっしゃいますか? 学校では

 

「でじま」

 

と読んできましたよね。ところが、江戸時代の史料をには、

 

「でしま」・「でじま」

 

の二つの表記が見られます。また、オランダ人など当時のヨーロッパ側記録では殆ど

 

「デシマ」

 

なんですよ。ま、「でしま」というのもアリということの様です。

 

長崎では1571年(元亀2)の開港以来、ポルトガル人をはじめヨーロッパ人たちは、市内に雑居していました。

 

ところが、キリスト教の浸透をおそれる江戸幕府は、1636年(寛永13)に、市内を貫流する中島川下流の弧状の洲(『長崎雑記』)を、25人の豪商(のちの出島町人)に命じて出資させ、扇形に整えて家宅を建てさせポルトガル人を収容し、 合計銀80貫目の家賃を取らせました。

 

1639年(寛永16)、ポルトガル人を追放し、これが空き家になると、1641年(寛永18)年5月17日に、平戸にあったオランダ東インド会社日本商館をここに移し、家賃銀55貫目を地権者たる出島町人に配分しました。

 

その後、この出島は、阿蘭陀屋敷ともよばれ、1857年(安政4年)の日蘭追加条約により鎖国的貿易制度が廃止されるまて、貿易を通してわが国唯一のヨーロッパ世界との接点となったのでした。

 

長崎の町と、このわずか3,969坪余の小島は、1つの橋でつながっていましたが、カピタンと呼ばれた商館長をはじめ10名前後のオランダ人は、きままな外出もゆるされず(外出は許可を得て役人の警護のもとで…という極めて制限されたものでした)、不自由な暮らしを強いられました。そんなことから、オランダ人たちは、この出島のことを

 

「国立の監獄」

 

と呼んだそうです。この制限は1856年(安政2)の日蘭和親条約でオランダ人の市内遊歩が認められ、また1860年(安政6)の開港に伴い、鎖国的な通商上の制約は廃止されました。

 

ちなみに、日本人は、出島役人(当初は136名、後年は224名に増員)と、門鑑を持った入札商人・日雇人夫、および遊女、そして高野聖(こうやひじり)以外の出入りが禁じられていました。

 

出島、現在はどうなっているか…というと…島ではなくなっています。1888年(明治21)年頃の中島川の変流工事にともない、出島東側の築(つき)町との間の潟は埋め立てられ、さらに1899年(明治32)〜1904年(明治37)にかけて西・南側水面が広く埋め立てられて、扇形の出島は完全に内陸化してしまったのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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