5月27日 <ちはやふる…藤原定家、古来よりの和歌を執筆。小倉百人一首の起源(1235年=嘉禎元)>

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1235年(嘉禎元)のこの日、藤原定家は宇都宮頼綱の求めに応じて天智天皇以来の歌人の和歌を一首ずつ色紙に執筆しました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

最近、百人一首の競技かるたを題材にした漫画「ちはやふる」が映画化されたようですね。

小生なんぞはちはやふるといえば、落語の「千早振る」なんですけどねぇ。

時代は変わったものであります。

 

小倉百人一首の撰者には様々な説がありますが、藤原定家がその撰者として有力視されています。

成立の時期と経緯は、定家撰の「百人秀歌」との前後関係をめぐって諸説があり、確定した通説に至っていません。

1235年(嘉禎元)のこの日、次男為家の岳父宇都宮頼綱(蓮生)の求めに応じて飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳天皇(順徳院)まで、歌人100人の秀歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためたのでした。

これが小倉百人一首の起源に関係すると考えられています。

 

この宇都宮頼綱は、もとはれっきとした鎌倉幕府の御家人でしたが、1205年(元久2)北条時政らが将軍源実朝を廃そうとした事件に関与し、出家して陳謝し、実信房蓮生と号しました。以後京都に居を構え、法然の弟子の証空に師事し、歌人として活躍し、多くの勅撰集に入集しました。京都では、藤原定家とも親しくし、頼綱の娘は定家の次男の為家の妻になりました。

 

その宇都宮頼綱が、京都嵯峨野(現在の京都府京都市右京区嵯峨)に小倉山荘と呼ばれる別荘を建築したのです。頼綱は、その別荘の襖の装飾のために、定家に色紙の作成を頼んでしたためて貰ったのが、今回の記事の色紙というワケです。

 

そうした経緯から、この小倉百人一首は、最初の頃は

  • 「小倉山荘色紙和歌」
  • 「嵯峨山荘色紙和歌」
  • 「小倉色紙」

と呼ばれましたが、後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した、と考えられています。

 

上で書きました落語の「千早振る」をご存知ない方は、以下にYouTubeに上げられています動画へのリンクを貼り付けておきますね。時間があるときにご覧ください。

<千早振る・三遊亭小遊三>

 

頼綱が定家に和歌を書いてもらった色紙は小倉色紙と呼ばれているそうですが、Wikipediaに面白い逸話が書いてありました。以下に引用しておきます。

定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。

(Wikipedia「百人一首」から引用)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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