6月17日 <「神罰が下った」と言われた平盛子の他界(1179年=治承3)>

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1179年(治承3)のこの日、平盛子が没し、そのことに関して世間では「異姓の身で藤原家領を継いだので神罰が下った」と噂されたそうです。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平盛子は、平清盛の娘でした。摂政藤原基実の妻で、高倉天皇の准母でした。盛子が基実の妻になったのは1164年(長寛2)のことで、基実22歳、妻の盛子は何と9歳でした。

1166年(仁安元)基実が24歳で没すると、、その長子基通(母は藤原忠隆の女)がまだ7歳と幼少であったため、遺領を盛子が相続したのです(実質は清盛でしたが…)。

その遺領相続にはこんな経緯がありました。

基実が没したことで摂関家との絆がなくなり、途方にくれて悲しむ清盛のところにある男が訪ねてきました。

その男の名前は藤原邦綱(ふじわらのくにつな)でした。邦綱はもと関白忠通の側近としてその敏腕を振るい、関白家の内部事情に精通した切れ者だったのですね。

その邦綱は

「基実公の遺産は、かならずしも摂政関白が継がねばならぬというものではありません。以前はあちこちに分割して相続されていたものです。それを忠実公の晩年に一つにまとめられたものです。忠通公だけはみな相続されたのですが、ただいま基実公がなくなられても、奥方(盛子)がこのように御健在ですし、腹違いではありますが若君(基通)もおいでになることですから、奥方が相続されたとて一向に差し支えないのです」

とこんな風に清盛に情報をインプットしました。

邦綱自身、権勢を振るう清盛に接近したいという欲望もあり、関白家の内部事情をこっそり暴露したんですね。

 

もともと、平氏は武士上がりなので、所領(荘園)が少なかったのです。そこで、濡れ手に粟状態で、日本最大の荘園、それも摂関家の荘園が手に入るという情報は、それこそ小躍りするくらいウハウハなものであったことは想像に難くありません。

早速、清盛は基実の遺産領のみならず、摂関家代々の記録・家宝・邸宅までもすっかり盛子が相続できるように取り計らい、そして「摂関家領は清盛に属すべし」、という院宣まで得ています。

 

ところが、1179年(治承3)のこの日、盛子もまた夫であった基実と同じく24歳でその生涯を閉じてしまったのです。

 

その翌日の6月18日に、右大臣九条兼実は、その日記「玉葉」に次のように書いています。

「白河准后(盛子)は、春ごろから不食(食欲不振)をわずらってだんだんと病状が悪化し、治療のかいもなくついに死去した。天下の人たちは、異姓の身で藤原氏の家を伝領したので、氏の明神(春日明神)が憎んで罰を加えられたのだと言っている。」

盛子が摂関家領を受け継いだこと、そして平氏の専制に対する世人の反感があらわれた噂ですね。

 

こののち、盛子が没したことで遺領となった荘園を後白河法皇が没収したため、清盛がクーデターを起こしますが、それはまた別項で、ということにしましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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