1903年(明治36)のこの日、東京朝日新聞に東京大学教授の戸水寛人(とみずひろんど)ら7人による対露強行意見書の全文が掲載されました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
日清戦争以降、日本とロシアとは次第に対立を深めていました。
ロシアは1902年(明治35)4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束しましたが、その協定は実行されず、それどころかロシアは韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江(おうりょくこう)を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めたのでした。
そうしたなか、1903年(明治36)6月初旬、東京帝国大学教授の小野塚喜平次・金井延・高橋作衛・寺尾亨・富井政章・戸水寛人および学習院教授の中村進午の7人は桂太郎首相を訪問し、その後、対露強硬外交を主張した意見書を提出しました。
「大凡(おおよそ)天下の事一成一敗間髪を容れず能く機に乗ずれば、禍(わざわい)を転じて幸となし機を逸すれば幸い転じて禍となす。外交の事特に然りとなす。然るに顧みて七八年来極東に於ける外交の事実を察すれば往々にして此機を逸せるものあり。
極東の形勢漸く危急に迫り既往の如く幾回も機会を逸するの余裕を存せず。今日の機会を失えば遂に日清韓をして再び頭を上ぐるの機なからしむるに至るべきこと是なり。今日は実に是千載一時の好機にして、而も最後の好機たるを自覚せざるべからず。独り喜ぶ、刻下我が軍力は彼と比較してなお些少の勝算あることを。然れども、此好望を継続し得べきは僅々一歳内外を出ざるべし。
彼れ地歩を満州に占むれば次に朝鮮に臨むこと火を賭(み)るが如く、朝鮮已に其勢力に服すれば次に臨まんとする所問わずして明なり。故に曰く今日満州問題を解決せざれば朝鮮空しかるべく、朝鮮空しければ日本の防禦は得て望むべからず。我邦上下人士が今日に於いて自ら其地位を自覚し姑息の策を捨てて根底的に満州問題を解決せざるべからざる所以まことに茲に存す」
(七博士意見書「全文と解説」から引用)
七博士は桂首相を訪問したのち、同年6月7〜10日にかけて高橋作衛が建議書を起草し、それに戸水が筆を入れて6月10日付けで出来上がったものでした。その建議書は、まず同年6月11日に東京日日新聞にその一部が掲載され、そして1903年(明治36)のこの日、東京朝日新聞4面に全文掲載され、それを全国各紙が取り上げました。
上に引用しましたように、桂内閣の外交を軟弱外交と非難し、主戦論を唱えました。そして、新聞・雑誌・遊説などによって世論を喚起したのでした。
この7人の教授達のうち、戸水寛人はもっとも威勢がよく、同年4月から日露開戦論をぶち上げ、陸軍から目を付けられていました。この意見書を桂首相に提出した後も、
「日本人は帝国主義を実行する必要がある。そうしてまたアジア大陸に日本植民地を求むる必要がある。そうなるとロシアと日本人との戦争はとうてい避けられない。避けられないならば日本にもっとも便利なときに戦争しなければならぬ。だれがみても今こそその時機ではないか。」
と叫び、開戦論の理論的支柱となるだけでなく、熱狂的なリーダーとして活動したのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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