6月 出来事

6月27日 <清州会議開催(1582年=天正10)>

2018/06/28

1582年(天正10)のこの日、本能寺の変で他界した織田信長の遺臣らが尾張清州城に集まって、今後どうするか? を打ち合わせました。その打ち合わせは「清州会議」と呼ばれています。

これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1582年(天正10)6月2日、織田信長は宿所の京都本能寺を臣下の明智光秀の率いる13,000騎の軍勢に攻められ命を落としました。本能寺の変と呼ばれる出来事です。

翌3日の夜にはその情報が秀吉の耳に入り、すぐさま備中高松城攻めの最中であったにも関わらず相手方と和議をまとめ京都に戻り光秀を討つために、「中国大返し」と呼ばれるを決断します。この秀吉の迅速な対処により、光秀は同月13日に敗走するところを土民の襲撃を受けて討たれてしまい、この本能寺の変は終結に向かいました。

 

さて、信長亡きあとの天下については家臣のだれもの関心事でした。

特に、信長の次男北畠信雄、三男神戸信孝は互いに政権への意欲を燃やしていました。四男で秀吉の養子となっていた秀勝もいましたが、秀吉はこれを信長の後嗣とするつもりはありませんでした。信孝・秀吉らが光秀の残党をもとめて斎藤利堯(さいとうとしたか)の守る岐阜城を召し上げ、美濃・尾張に軍を進めた際、一つの有名な会議が行われました。

 

1582年(天正10)のこの日、信長の家臣柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興らが尾張清州城に会して、故信長の後嗣を定め、遺領処分を合議したのです。その席には滝川一益も参席し、織田家の宿老が顔を揃えたのです。

 

この会議、光秀の追討で遅れをとった柴田勝家が

「談合申すべき子細ありとて触れられ」

と招集をかけた…という記録が「川角太閤記」という史料に残っています。自らの立ち遅れをなんとか挽回すべく会議を招集したのでしょう。

このように、戦後の収拾策を会議によって決定するという方式は日本史上ではそれまでにはなかったことでした。まぁ、その決定は必ずしも遵守されませんでしたがね。

 

柴田勝家は三男の信孝を後嗣として推していました。信孝の元服の際には勝家が烏帽子親を務めた経緯があり、また信孝は明智討伐の際に秀吉と行動をともにしていたので、勝家の論旨には一理ありましたが、兄の信雄を差し置いて…という点で無理がありました。秀吉は、二条御所で明智に討たれた長男の故信忠のと懇意であったこともあり、その嫡子の三法師(秀信)を後嗣として推しました。

合議の結果、

  • 後嗣は三法師
  • 信雄は尾州、信孝は濃州に配分
  • 天下の政道は柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興がみる
  • 遺領は信雄ー尾張、信孝ー美濃、秀勝ー丹波、秀吉ー山城、勝家ー近江国のうち長浜6万石、池田恒興親子ー大坂・尼崎・兵庫12万石、丹羽長秀ー若狭国および近江国内の高嶋・志賀2郡、滝川一益ー5万石、蜂屋頼隆ー3万石
  • 遺領分割の結果、主家織田氏の収入があらかた無くなってしまうので、諸将がその知行高に応じて主家の経済を補助する

といった様ことが決定したそうです。

この清州会議、光秀討伐の功績を背景に長秀・恒興と手を結んだ秀吉の思惑通りになったため、勝家側の不満は大きく、両者(秀吉ー勝家)の対立は決定的なものとなりました。

 

さて、清州会議といえば、三谷幸喜氏が執筆された小説と、それを原作として同氏が監督された映画とが思い出されますね。役所広司演じる柴田勝家と大泉洋演じる羽柴秀吉とを軸として、お笑いタッチでありながら人間ドラマとしても楽しめる作品ですよ。以下に、文庫本とDVDの紹介をしておきますね。

<文庫本>

清須会議 (幻冬舎文庫)

<DVD>

清須会議 スタンダード・エディション [DVD]

<Blue-ray>

清須会議 Blu-ray スタンダード・エディション

先に読んでもよし、見てから読んでもよし。見ても読んでも楽しい作品ですよ!

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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