6月29日 <霜月騒動に関する訴訟の不受理を決定(1294年=永仁2)>

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1294年(永仁2)のこの日、北条貞時は霜月騒動における所領の訴訟を一切受理しないことを決定しました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

北条時宗の執権の時、幕府には時宗のほかに実力者が2人いました。有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)と御内人首座(内管領)の平頼綱(たいらのよりつな)とです。両者は勢力争いを続けていましたが、調停役を務めていた時宗が1284年(弘安7)に33歳の若さで他界すると、対立はにわかに激化し、翌1285年(弘安8)11月、平頼綱は兵を集め安達泰盛一族を滅ぼしてしまいました。この事件は、発生した月にちなんで霜月騒動と呼ばれています。

安達泰盛は「御家人」なので、将軍と直接の主従関係を結んだ武士の事だったワケですね。主君に従う従者を一般に家人(けにん)と言いましたが、将軍への敬意から「御」の字が追加されたのです。

これに対して平頼綱は「御内人」で、こちらは得宗と呼ばれる北条氏の本家の家臣でした。北条氏の躍進とともに、この御内人、すなわち北条氏の家臣に地位も向上し、有力な御内人は幕府政治に関与するようになっていました。

通説では、泰盛は御家人の代表であり、頼綱は御内人の代表であったとされています。得宗の力の増大は御内人の発言力の増大でもあり、御家人と御内人とで幕府運営の主導権を争った、というのが両者(泰盛と頼綱)の抗争の本質であると考えられています。そして、通説では泰盛が多くの御家人とともに敗死したことは御家人勢力の敗北を意味すると説いています。

 

この通説に対抗する見解もあります。結構複雑な人間関係だったらしく

・安達泰盛の娘(本当は妹で養女)は時宗の正室
・貞時は泰盛の孫

という関係において、泰盛は外戚として時宗や貞時の勢力拡大に務めたのであり、彼をもって御家人勢力の代表とはみなし難く、泰盛と頼綱との争いは、得宗の第一の後継者の地位をめぐる争いであった、とする説です。

 

霜月騒動については、拙blogに別稿がありますのでご笑覧下さい。

→ 11月17日 <霜月騒動が勃発(1285年=弘安8)>

 

得宗北条貞時は、訴訟をみずから裁断するなど政治改革に向けて支配的権力を振るっていましたが、1294年(永仁2)のこの日、霜月騒動における所領の訴訟を一切受理しないことを決定しました。それは、訴訟にまつわる混乱を清算するのが狙いであったと考えられています。

実は、その前年の1293年(永仁元)には、貞時は頼綱をも誅殺し、幕府の政務を一手に握ったという背景もあって得宗の専制政治を強めていったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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