6月 出来事

6月3日 <イヤでござんすペリーさん、浦賀に来航(1853年=嘉永6)>


今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

これは5分程度で読める記事です。

1.出来事ピックアップ

 

1853年(嘉永6)の今日、浦賀沖にアメリカ合衆国東洋艦隊司令長官ペリーが来航しました。表題の「イヤでござんす」は河合塾の石川晶康先生がペリー来航の年次を覚えるゴロ合わせとして言われているものです。「イ(1)ヤ(8)でご(5)ざ(3)んす」なんですよ。

 

2.解説

 

アメリカ合衆国東洋艦隊司令長官ペリーが4隻の黒船で浦賀湾に現われたのは、1853年(嘉永6)6月3日の午後5時ごろでした。夏は陽が落ちるのも遅く、まだ明るく青い海に見なれない黒船の出現に陸上は大騒ぎとなり、女や子供は恐れて山中へ逃げました

 

ホークスの『ペリー日本遠征記』には次の様にあります。

「投錨直前に天気はからりと晴れ渡り、富士山の高い頂きがはっきり見えて、 とても締麗だった」

 

このペリー艦隊来航のことを詠った狂歌があります。

泰平の ねむりをさます 正(上)喜撰(じょうきせん) たった四はいで 夜もねられず

正喜撰というのは上質の茶の銘柄で、これを飲むと興奮してよく眠れないのですが、もちろん蒸気船に引っ掛けているわけです。

 

この出来事は、それまでの治国を乱国としたともいえます。たった4隻のアメリカ軍艦の来航が、日本を大きくゆさぶりました。幕末の動乱は、本格的にここから始まったのでした。そうしたことから明治維新史の始まりを、このペリー艦隊の来航とする学者も少なくないのです。

 

1853年(嘉永6)のその日、浦賀沖に姿をあらわした、ペリー一行の4隻のアメリカ軍艦というのは、サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガでした。東印度艦隊司令長官だったペリーの命により、4隻の軍艦は、大砲に装弾し、哨兵および各員はそれぞれの部署について、一応の戦闘準備体制をととのえ、同日午後5時ごろには、浦賀沖に錨をおろしたのでした。

 

旗艦サスケハナは約2,450t、ミシシッピは1,692tで、黒煙をあげる巨大な蒸気軍艦で、プリマス(989t)とサラトガ(882t)は帆船ではありましたが、日本船とはちがって相当な装備を持った有力な軍艦でした。いずれも黒く塗装されており、砲門は陸地に向けられ、いつ火を吐くもしれない不気味さこの上ない姿でした。

 

浦賀奉行組与力(よりき)中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)が、来意を問うため旗艦サスケハナに赴きましたが、ペリーは奉行以外は乗艦させないと拒絶しました。中島は浦賀副知事と自称し、この官職に相当する乗組士官に会見することを要求しました。やっと通詞(つうじ。通訳のこと)と2人の乗艦が許可され副官コンティ大尉と面会して来意をたずね、さらに日本の法として長崎に回航するように述べましたが、一向に聞き入れる様子もありませんでした。

 

急報が江戸に飛びました。

 

警固のため、諸藩の応援兵が、東海道を急ぎ足で浦賀方面へ向かっていきました。

 

浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだいずのかみうじひで)の幕府への報告書には、ペリー艦隊の様子が詳しく述べられています。

「アメリカ軍艦2隻は鉄張(てつはり)の蒸気船で、大砲は3〜40門と12門、2隻は大砲20門あまりで、進退は自由自在で、櫓(ろ)や櫂(かい)を用いず、迅速に出没する……まったく水上を自由に動く城である……船中の形勢をみると厳重な警戒をしており、もしここで国書を受け取らねば、ただちに江戸表にまで乗りこむといい、もしそのさい、江戸でも浦賀でも受け取らぬとならば使命を果たせぬところからその恥をそそぐことになろう。そのさい浦賀から使者がきても降参の白旗を立ててこない以上相手にはしないとまで言いきり、将兵たちの顔には、はっきりと殺気がみなぎっている」

 

ペリーは、ここで大統領の国書を受領させようと強硬な決意をしていました。幕府首脳部は、この報を得て、愕然としました。これをどう処置するか、議論は容易に決しませんでした。老中阿部正弘は、徳川斉昭に対策意見をたずねたが、斉昭は以下のようにと答えるのみでした。

「今となっては打ち払ってよいとばかりも言えない。異国船さわぎが長びくと自然と国内でも種々事件が起こるであろう。ともかく多くの人々と相談して決定するよりしかたがないだろう」

 

同月6日ミシシ ッピ艦は、さらに内海にまで進み、測量かたがたデモンストレーションを行いました。

 

実は、その前年、幕府はオランダ商館長からペリー来航の情報を得ていたにも関わらず、なんら有効な対策を立てられなかったのでした。退去させるだけの実力のない幕府にとっては、ペリーの要求を受け入れるほか方法はありませんでした。

 

幕府は、久里浜で米国国書を受領することとなり、同年6月9日をその日と決めました。

 

国書の授受の儀式は、久里浜海岸に急造された応接所でペリーと浦賀奉行戸田氏栄と井戸石見守弘道との間に、厳粛な雰囲気の中で…しかしながら簡単におこなわれました。

 

国書というのは、アメリカ大統領フィルモアより、日本皇帝陛下(将軍)あての手紙で、このほかぺリー提督の信任状およびペリーから将軍にあてた2通の信書も同時に日本側に渡されました。

 

大統領の手紙はかなり長文のものですが、大意は以下のようなものでした。

「余が強力なる艦隊をもってペリー提督を派遣し、陛下の有名なる江戸市を訪問せしめたる唯一の目的は次の如し。即ち友好・通商、石炭と食糧との供給および吾が難破民の保護これなり」

 

ペリー艦隊は、その3日後には江戸湾を退去しました。ただちに幕府の速答を得ることは困難であると考え、一時中国方面に向かい、来春にふたたび来航して回答を得ようとしたのでした。

 

今日はここまでです。

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