7月12日 <いいくに作ろう鎌倉幕府、頼朝、征夷大将軍となる(1192年=建久3)>

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1192年(建久3)のこの日、源頼朝はかねてから熱望していた征夷大将軍に任命されました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは4分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1180年(治承4)の挙兵以来、源頼朝は朝廷から求められても鎌倉から離れようとしませんでしたが、それ以来10年かかって東国に確固たる地位を築いた新政権のトップ「鎌倉殿」として京都を訪問することにしました。

1190年(建久元)10月、頼朝は精兵一千余騎をひきつれて鎌倉を出発し、翌11月に遂に都入りを果たしました。

戦闘は畠山重忠がつとめ、選びぬかれた精兵が3騎ずつ100組が護衛するまんなかを、頼朝は堂々と進みます。その出で立ちは折烏帽子(おりえぼし)、紺青(こんじょう)の水干袴(すいかんばかま)に白のむかばきを履き、自慢の黒い名馬に跨っている、というものでした。後白河法皇をはじめ多くの貴族たちは車を加茂川の河原に出し、はじめめ目の前に現れたこの東国の主「あずまえびす」を見守ったそうです。

 

その入京後、約1ヶ月余り滞在している間の住まいは、かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸でした。

 

頼朝は、後白河法皇に拝謁し、余人を交えず長時間政治上の問題について会談しました。恐らく頼朝は挙兵以降の10年間の総決算と、今後の東国支配のための適切な地位を求めたのではないでしょうか」。

しかし、頼朝は、かねてから東国の支配者としての地位を象徴すべき官職として熱望していた征夷大将軍の職は認められず、代わりに常置の武官としては最高の地位にある右近衛大将および権大納言の職に任命されただけでした。頼朝はこれを受け、同年12月1日に盛大に拝賀の儀式を執り行いましたが、12月3日に両官を辞してしまいました。

その背景としては、

  • 単なる王朝の侍大将ではないことを天下に明示した。
  • 両官ともに京都の朝廷における公事の運営上重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻る事が困難になると判断した(Wikipedia「源頼朝」から引用)

などの説があります。

後白河法皇に拝謁した夜、頼朝は摂政九条兼実と面会して胸襟を開いて語り合いました。兼実が「玉葉」に次の様に書いています。

「今の世は法皇が思うままに天下の政を執り、天子(天皇)とても春宮(皇太子)のようなありさま。目下のところは致し方ないが、幸いにあなた(兼実)もまだまだお若くて先は長い。わたくしにも運があれば、法皇御万歳(法皇の崩御)の後にはいつか必ず天下の政を正しくする日がやってくるでしょう。また父の義朝は反逆により身を滅ぼしましたが、本心は忠誠を旨としており、父の忠を空しくしないため私は朝廷の大将軍になったのです」

そうして、頼朝は同年12月14日京都を去り、29日に鎌倉に戻りました。

 

頼朝と兼実とが望んだ「法皇御万歳」のときは、意外にはやく訪れました。

1191年(建久2)の暮れから腹病にかかった後白河法皇は、やがて重体となり、翌1192年(建久3)3月に崩御されたのです。享年66歳だったので、当時としては随分と長生きでした。

 

1192年(建久3)のこの日、法皇崩御の後の最初の人事異動で、頼朝は遂に征夷大将軍に任命されました。

その時の朝廷とのやり取りがWikipediaに出ていますので引用しておきますね。

『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。

(Wikipedia「源頼朝」から引用)

 

法皇の崩御にともなって頼朝が征夷大将軍になった…ということから、頼朝が熱望していたその職への任命を、法皇がかたくなに拒み続けたと考えられてきましたが、近年の研究ではそれを疑問視する説もあるそうです。その理由…知ってみたいですねぇ。

 

それと、小生が日本史を学習したころは、鎌倉幕府の成立年代について、今回の記事の源頼朝が征夷大将軍になった時として

「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」

と覚えたものですが、その後、幕府成立の時期については1185年(文治元)が通説となっています。その点につき、明日書く予定です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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