7月2日 <金閣寺、全焼(1950年=昭和25)>

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1950年(昭和25)のこの日、室町幕府第3代将軍足利義満の北山山荘(北山殿)の遺構で禅宗寺院鹿苑寺にある壮麗な金閣が、同寺徒弟の林承賢に放火により全焼してしまいました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

金閣は、室町幕府の第3代将軍足利義満が北山山荘(北山殿)に設けた三層の住宅系建築です。最上層に舎利を安置するため舎利殿と呼ばれていたその建物は1398年(応永5)頃です。金閣という名は、外部を金箔で覆っていたことに由来し、室町時代中期からすでに「金閣」という名で呼ばれていたそうです。

 

この金閣の建築様式は、伝統的な寝殿造や禅宗寺院の禅宗様など、様々な文化を折衷したとでもいうべきものであり、この時期の文化的特徴を見せていることから、この時代の文化は一般的に北山文化と呼ばれています。

その代表的な建築が、この北山殿の舎利殿と呼ばれた金閣で、第1層は寝殿造風に、第2層は和様仏堂風に、第3層は禅宗様につくられています。建物の西側には寝殿造に特徴的な釣殿風の建物を付属させているのも見逃せない部分です。

 

国宝にも指定され重要な文化財であった金閣ですが、1950年(昭和25)のこの日の未明、同寺徒弟の林承賢に放火により全焼してしまいました。当時21歳の林承賢についての記述はWikipediaから借りてきました。

鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、昭和25年7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに保津峡で投身自殺した。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。

(Wikipedia「鹿苑寺」から引用)

この放火によって全焼した金閣の痛ましい姿が、Wikipediaにあったので無断で借りてきました。

<焼失直後の金閣寺>

焼失した金閣は、5年後の1955年(昭和30)に同じ様式で再建され、更に1987年(昭和62)10月には大規模な修復工事が終わり、創建当時の姿が蘇ったのでした。

<金閣寺全景>

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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