7月27日 <天文法華の乱起こる(1536年=天文5)>

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1536年(天文5)のこの日、法華一揆と延暦寺とが衝突し、法華宗徒側は本山をすべて焼き討ちされ堺へと落ち延びました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今回の記事の天文法華の乱は、1536年(天文5)に起きた延暦寺宗徒と六角氏を中心とする軍勢が、京都町衆の法華宗徒を攻撃し、京都から追い出した出来事ですが、その内容に進むまえに、法華宗のことについて少しだけ触れておきましょう。

 

法華宗(日蓮宗)は、鎌倉時代末期以降、東国から京都に進出し日像(にちぞう)の妙顕寺(みょうけんじ)や日静(にちじょう)の本圀寺(ほんごくじ)などを中心に栄えました。その後、日親(にっしん)は、中国・九州地方に勢力を伸ばしましたが、他宗と激しい論戦を行ったため他宗や幕府からしばしば迫害を受けました。

京都の町衆のなかでも、財力のある商工業者に法華宗の信者が多く、彼らは1532年(天文元)京都を戦火から守るため法華一揆を結んで、一向一揆と対決し、町政を自治的に運営し、それ(京都の町政)をほぼ掌握していました。同年、その法華一揆は細川・六角・木沢諸氏らの軍勢とともに一向一揆と戦って山科本願寺を焼き討ちし、京都市中では一大勢力となっていました。

 

ところが、洛中に多くの所領をもつ延暦寺と町衆による地子銭(じしせん)不払い行為によって対立が起きていました。

さらに1536年(天文5)3月の比叡山僧侶と一法華宗徒との宗論で法華宗徒が論破したのをきっかけに、その対立は深まっていったのです。

延暦寺は法華宗攻撃を決議し、幕府・朝廷に訴え、園城寺・興福寺・東寺・高野山・根来寺など諸国寺院、また越前国朝倉氏らに合力を求めました。

 

1536年(天文5)のこの日、延暦寺・六角氏・園城寺らの軍勢と法華一揆とが衝突し、法華宗側は大敗し、法華宗21本山は滅亡、宗徒は京都を追放され堺へと落ち延びました。

その追放された宗徒たちは、1542年(天文11)になってようやく、京都に還住を許されました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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