8月27日 <白村江の戦いで、倭・百済の連合軍が大敗(663年=天智天皇2)>

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663年(天智天皇2)のこの日、朝鮮半島南西部の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)下流で、倭(日本)の水軍は唐の水軍と合戦が行われましたが、またたく間に倭軍は壊滅させられ、多くの溺死者が出ました。

これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

朝鮮半島では、655年(斉明天皇元)、高句麗と百済とが連合して新羅に侵攻しました。新羅は唐に救援を求め、唐の高宗は660年(斉明天皇6)に百済に出兵し、首都の扶余(ふよ)を陥落させ、義慈王は降伏し、百済は滅亡しました。

鬼室福信を中心とする遺臣たちは、百済の復興に立ち上がり、倭国に滞在していた王子豊璋の送還と援軍の派遣とを要請してきました。この王子豊璋が倭国にやってきた時のことは、拙Blogの別記事に記してありますのでどうぞご笑覧下さい。

3月1日 <百済から人質の王子が送られる(631年=舒明天皇3)>

 

斉明天皇と中大兄皇子とは、百済救援に大軍を送り込むことに決めました。661年(斉明天皇7)、中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の座につかないまま、戦争指揮を行いました。662年(天智天皇元)に大軍を渡海させ、一旦唐将劉仁願を窮地に追い込んだのですが、663年(天智天皇2)高宗が大量の援軍を投入したのです。

663年(天智天皇2)のこの日、劉仁軌を将軍とする水軍と倭国の水軍とは、白村江河口付近で船上戦を展開し、またたく間に倭国軍は壊滅し、大量の溺死者が出ました。一方、白村江の岸上では文武王に率いられた新羅軍に百済・倭国軍は破れました。この結果、百済復興の動きは崩壊し、翌日、百済の王余豊璋は高句麗に逃げてしまいました。

 

この戦は東北アジアに唐を中心とする国際秩序を構築しようとする唐と、百済との暦年の友好関係をもとに百済を従属させたかたちで国際的地位を主張する倭国との対戦でした。敗戦の結果、4世紀以降の倭国と百済との連盟は消滅し、倭国は朝鮮半島での足場を失ってしまったのです。

その後、倭国内では、対外防備用の城が多く築かれ、また律令国家への歩みが本格化しました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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