1244年(寛元2)のこの日、鎌倉時代の親幕派の貴族の筆頭であり、また関東申次(もうしつぎ)として権勢を振るった西園寺公経(さいおんじきんつね)が他界しました。
これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
西園寺公経は鎌倉時代前期の公卿です。
源頼朝の妹婿一条能保の娘の全子と結婚して幕府と親密になり、1219年(承久元)に第3代将軍源実朝の暗殺後は、外孫三寅(みとら、のちに藤原頼経)を将軍後継者として下向させる際の中心人物となったのです。
1221年(承久3)、承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されてしまいますが、事前に乱の情報を幕府にもたらして勝利に貢献しました。
乱後は、幕府との強い結びつきを背景に、1222年(貞応元)太政大臣、翌1223年(貞応2)従一位に昇進し、娘婿の九条道家とともに公家政権を掌握しました。関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。
道家の外孫四条天皇が急逝し後嵯峨天皇が即位すると、公経の孫の姞子(きつし)を中宮に立て、久仁親王(後深草天皇)の外戚となりました。
とまぁ、平安時代の藤原氏の様な権勢を振るった西園寺公経ですが、1244年(寛元2)のこの日に亡くなりました。
公経自身は西園寺家の4代目なのですが、西園寺家の実質的な祖を築いた人なんですねぇ。明治時代に内閣総理大臣となる西園寺公望も、この公経の子孫にあたり、公望は第35代当主です。
また、公経は政治的な手腕だけでなく、琵琶・和歌に秀で文化人としても活躍しました。
小倉百人一首にも選ばれているのですよ。
入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)という詠み人で
花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけり
(現代語訳:桜の花を誘うように嵐が庭に散らしているのは花吹雪ではなく、降っているのは、古(降る)びて年老いてゆく我が身なのだなぁ)
「新勅撰和歌集」に選ばれたこの一首が、前太政大臣ということは50歳を過ぎてから詠んだ歌だったのですねぇ。年老いてゆく悲しみがなんとも味わい深い句だと思います。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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