630年(舒明2)のこの日、遣隋使の後継となった遣隋使の第1回目が派遣されました。
これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアの広大な領域を支配下に治め、律令に基づく国家体制を築き、大きな勢力を有していました。唐は周囲の地域にも多大な影響を持ち、西アジアとも交流が活発でした。唐の都、長安(現・西安)は世界有数の都市として国際的な文化が栄えていました。東アジアの国々もまた、唐に朝貢したり通行が行われ、アジア圏では唐を中心そした政治・文化圏が形成されていました。
日本からも、唐に外交使節が派遣されており、遣唐使と呼ばれました。
その遣唐使の目的は、遣隋使のあとをうけて
- 唐の先進文物・制度を輸入すること
- 日本が蝦夷(えみし)や新羅(しらぎ)などの上に立つ国であることを唐に主張すること
にありました。
630年(舒明2)のこの日、遣唐使の第1回目として、614年(推古22)に遣隋使として渡航した犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が任命されました。犬上御田鍬らは、翌年、唐の使者高表仁・僧霊雲・僧旻らとともに帰国しました。
その後、遣唐使は894年(寛平6)の菅原道真の建議による中止にいたるまで19回任命され、そのうち15回が唐に渡りました。
最初の頃は2隻の遣唐使船で唐に向かっていましたが、8世紀以降は4隻に500人前後が分乗していました。初期には、朝鮮半島西岸から山東半島に至る北路が取られていましたが、新羅との関係が緊張した8世紀以降は、五島列島から東シナ海を西に直進する南路を取るようになり、また帰路には沖縄から南西諸島ぞいに北上する南東路を用いたり渤海を経由することもありました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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