9月25日 <江戸幕府、シーボルトに国外退去を申し渡す(1829年=文政12)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

1829年(文政12)のこの日、オランダ商館の医師シーボルトは、禁制の日本地図を不法に所持していた罪により、国外退去と再渡航禁止を言い渡されました。

 

シーボルトが三本マストのオランダ帆船「三人姉妹号」で長崎にやってきたのは、遡ること6年前の1823年(文政6)年でした。このとき、彼は28歳で、オランダ商館付医師としての着任でした。20歳でヴェルツブルク大学に入り、医学のほかに植物学・動物学・地理学・人種学などを学んだシーボルトは、広く豊富な知識をそなえていて、長崎郊外の鳴滝(なるたき)に診療所兼学塾をひらくことを許されると、洋学を志す日本の生年が、その学識を慕ってぞくぞくと集まってきました。

この時期は、藩が設立した藩学(はんがく)、藩の援助を受けて町民などが設立した郷学(ごうがく)、さらには民間にあって武士・学者・町人らによって開かれた私学(しがく)、さらには初等教育をうけもつ寺子屋などの様々な教育機関が各地に出来た時代でした。上記のシーボルトの学塾も「鳴滝塾(なるたきじゅく)」とよばれて、日本の蘭学発展に大きな功績を残しました。

 

その鳴滝塾の生徒数は57名。なかには、のちの日本洋学界の指導者となった高良斎(こうりょうさい)や高野長英(たかのちょうえい)、小関三英(おぜきさんえい)、伊東玄朴(いとうげんぼく)、戸塚静海(とつかせいかい)らが居ました。シーボルトもこれらの青年たちを愛し

「(この鳴滝という)一小天地よりして、科学的開発の新光明が四方に放射した」

といっています。そんなこともあって、彼が随行した1826(文政9)のオランダ商館長の参府は、江戸の知識階級から熱い目でもって迎えられました。

 

その一人に、幕府天文方の高橋景保(たかはしかげやす)がおり、彼がシーボルトを訪問したとき、伊能忠敬(いのうただたか)間宮林蔵(まみやりんぞう)の蝦夷(えぞ:北海道のこと)の地図を持参して見せ、後日、洋書と交換にそれらの地図の写しを贈ったのでした。当時、日本の地図を外国人に贈ることは禁じられており、それを公儀に内緒でやったことが、ちょっとした手違いから幕府にしられてしまい内偵されたのです。

そして、帰国の決まったシーボルトが荷物を積み込み、出帆待ちしているところに、1828年(文政11)8月10日、折り悪く暴風雨が襲い、稲佐の浜辺に打ち上げられた荷物のなかから、禁制の地図が発見されてしまったのでした。地図を贈った高橋景保は捕らえられ獄中で亡くなりました。

 

この事件が世にいう「シーボルト事件」です。

 

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