1189年(文治5)のこの日、藤原泰衡は源頼朝の軍から敗走する途中、家臣に裏切られて亡き者にされ、ここに栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡しました。
これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
広告
1.解説
源義経は、京都で孤立し、奥州平泉の豪族藤原秀衡のもとに落ち延びました。
秀衡は遺言で、兄の国衡・源義経とともに泰衡に「三人一味」せよと言い残しましたが、秀衡の死後、泰衡は義経を殺害してしまいます。
このことは、拙Blogの別稿で記事にしていますので、併せてご笑覧下さい。
→4月30日 <源義経、衣川の戦いで命を落とす(1189年=文治5)>
義経を殺害することで、泰衡は頼朝との協調を図りましたが、頼朝は自ら28万騎の大軍を率いて奥州に進んできます。その目的は奥州藤原氏の征伐です。
頼朝は1189年(文治5)8月22日に平泉に到着します。
一方の泰衡は、これを迎え撃つことができず、藤原氏の栄華の跡に自ら火をかけ、平泉を捨てて敗走してしまいました。
そして同年のこの日、その敗走の途中、肥内郡(ひないぐん)贄柵(にえのさく)で家臣の河田次郎に裏切られて亡き者にされてしまいました。
ここに、藤原基衡・清衡・秀衡と三代が築き上げ、栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡したのでした。このことにより、武家の棟梁としての源頼朝の地位を脅かす者は誰も居なくなったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
広告
こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
コメント