894年(寛平6)のこの日、菅原道真から建議された「遣唐使の廃止」は朝廷によって検討された結果、正式に認められ、630年(舒明2)以来260年余の歴史を持つ遣唐使は廃止されました。
これは、平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
894年(寛平6:かんぴょう6)8月、遣唐使の発令があり、菅原道真(すがわらのみちざね)が大使に、紀長谷雄(きのはせお)が副使に任命されました。渡唐が実現すれば、前回から起算して、実に56年ぶりのこととなるはずでした。
しかし、当の菅原道真は、遣唐使に選ばれた事を迷惑に思ったらしいのです。そこで、任命されてから1ヶ月も経たない9月14日に、道真は遣唐使の廃止を朝廷に建議しました。
菅原道真といえば、その頃、当代一流の学者であり、儒学を家学としていました。その立ち位置からすれば、入唐して本場の学問に接するのは、またとない箔付け(はくづけ)をなったはずでした。それなのに、道真はどうして絶好の機会を放棄する態度を取ったのでしょうか。
直接の原因は、唐に留学中の僧中灌(ちゅうかん)の手紙にあったとされています。中灌の手紙には、
「唐帝国の権威が最近とみに衰え、国内の治安も悪化する一方で、わざわざ渡唐しても骨折り損に終わる可能性が高い…」
と書いてあったのです。事実、唐では8世紀半ばの安史の乱(あんしのらん)以来、国力が衰退しつつあり、9世紀後半の黄巣の乱(こうそうのらん)をきっかけに、907年、その唐は滅亡してしまったのです。その後、979年に宋が中国を統一するまで、五代十国の諸国が分立する混乱期が続いたのです。
また、その頃わが国が新羅(しらぎ)との関係が悪化していたので、遣唐使船は東シナ海を横断する南路を取らざるを得なかった、という事情も見逃せません。このコースは遭難の危険が多く、これまでも何度か行方不明になった船があったそうなんです。
更には、道真本人もその大使任命の時点で、年齢が五十歳を数えていたことも原因の一つでしょう。すでに学問の大家として名を馳せていた道真としては、わざわざ危険を犯してまで入唐する意義を見出せなかったのでしょう。
894年(寛平6)のこの日、この菅原道真の建議は、財政難に直面していた朝廷も、巨額の費用がかかる遣唐使派遣に余り乗り気ではなかった背景もあり、廟堂(びょうどう)において正式に認められ、第一回派遣の630年(舒明2)以来260年余の歴史を持つ遣唐使は、ここに廃止の運命を迎えました。遣唐使はこの260年の間に18回計画され15回は実際に渡航した様です。
遣唐使の廃止以降も、中国・朝鮮諸国からの政治的使節や商人の来航は続いていました。朝廷は、一定の条件下での交易は行ったものの、国家的交渉の要求は拒否するという姿勢を取っていました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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