10月13日 <薩摩藩に倒幕の密勅(1867年=慶応3)>

スポンサーリンク

1867年(慶応3)のこの日、倒幕の兵を動かすための名分としての宣旨を求めていた薩長両藩のうち、薩摩藩主父子に対して倒幕の密勅が出されました。長州藩主父子へは翌14日の日付で密勅が出されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

1867年(慶応3)10月8日、薩摩・長州・芸州三藩の倒幕派首脳は京都に集まり、さて、いよいよ倒幕決行!と決意を固めました。これらの倒幕派は絶えず岩倉具視や王政復古派公卿と連絡を取り合い、宮廷内の工作を行っていました。

いよいよ倒幕…となればそのための大義名分が必要でした。その大義名分は、天皇が「幕府を討伐せよ」と命ずることが必要だったのです。そこで、倒幕派は早く倒幕の勅命を得ようと画策しました。

 

その時の天皇は明治天皇です。孝明天皇は1866年(慶応2)12月25日に崩御され、翌1867年(慶応3)1月9日に満14歳で践祚の儀を行い皇位に即かれていたのです。その明治天皇、まだ政治的判断力はありませんでした。孝明天皇ならば決して下されそうにない勅命が遂に出されたのです。それは「討幕の密勅」と呼ばれるものです。

 

1867年(慶応3)のこの日の日付で薩摩藩主島津茂久父子に、翌14日の日付で長州藩毛利敬親父子に対し同文の「討幕の密勅」が授けられました。

 

この密勅が出されるにあたっては岩倉具視と王政復古派公卿の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)とが、極秘裏に事を進めた、とされています。授けられた場所は、正親街三条実愛邸で、受け取った人は薩摩の大久保利通および長州藩広沢兵助(真臣)でした。

この「討幕の密勅」の画像がWikipediaにあったので例の如く無断で借用してきました。画像またはその下の青文字から、Wikipediaの画像が確認できます。

<討幕の密勅>
(Wikipedia「討幕の密勅」から無断借用)

 

この討幕の密勅では、徳川慶喜の罪を責めて「殄戮賊臣慶喜」と、慶喜を賊をと呼び、これを征伐せよ…と述べています。

この写真の左下に、中山忠能(なかやまただやす)、三条実愛、中御門経之(なかみかどつねゆき)3名が署名した詔書ですが、天皇の直筆もなければ、勅旨伝宣の奏者として名を連ねた3名の花押すらない形式的には異常なものだったのです。そうしたこともあり、この密勅は岩倉具視を黒幕とする偽文書と考えられていますが、これが「聖断」とされて、この後の政局に果たした役割は極めて大きい、重要な文書だったのです。

 

さて、この3名のうち三条実愛が後年、館林藩出身の岡谷繁実(おかやしげざね)の質問に答えて、以下の様に語っています。

岡谷:倒幕の勅書を薩長2藩に賜ったのは、いかなるしだいでしょうか?

三条:余と中御門の取り計らいだ

岡谷:中山公の御名もありますが、これはいかなるしだいでしょうか?

三条:中山故一位(忠能)は、名ばかりの加名である。それは岩倉(具視)の骨折りだ。

岡谷:勅旨と称するものと、綸旨(りんじ)との違いはどうですか?

三条:薩長に賜ったのは綸旨というべきだろう。

岡谷:綸旨の文章は何人(なんびと)の起草に係ったものですか?

三条:玉松操(たままつみさお)というものの文章だ。玉松は至って奇人であった。

岡谷:筆者は何人(なんびと)ですか?

三条:薩州に賜ったのは余が書いた。長州に賜ったのは中御門が書いた。

岡谷:右のことは二条(斉敬)摂政や親王がたとご協議があったことですか?

三条:右のことは二条にも親王がたにもすこしも漏らさず、ごく内々のことで、自分ら3人と岩倉のほか、だれも知るものはない。

とまあ、密勅の出た事情がそれなりにあったようですねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
10月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!