11月25日 <日独防共協定に調印(1936年=昭和11)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1930年台に日本が東アジアにおいて、ワシントン体制の枠組みを踏み越えて、中国大陸への進出を強めているころ、ヨーロッパにおいても、独裁政権をつくったドイツ・イタリアがイギリス・フランス・ソ連と対抗しつつ勢力を拡大し、ヴェルサイユ体制打破に乗り出していました。

 

世界恐慌の影響で社会不安の高まったドイツでは、1930年代に入ると、ヒトラーを指導者とするナチ党(国民《国家》社会主義ドイツ労働者党)が急速に勢力を拡大し、1932年(昭和7)の総選挙で国会の第一党となり、1933年(昭和8)1月、ヒトラー内閣が成立しました。同年3月、ヒトラーは全権委任法を制定して独裁権を確立し、ナチ党以外の政党を禁止し、翌年には大統領と首相をかねて総統となり、国民投票によってその承認を受けたのです。こうしてドイツにおいては、ヴァイマル共和制は崩壊し、ナチ党の一党独裁体制が確立されました。その間、1933年(昭和8)10月、ドイツは日本に続いて国際連盟を脱退し、1935年(昭和10)、公然とヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して再軍備を声明し、1936年(昭和11)には非武装地帯であったラインラントに進駐しました。

 

イタリアではこれより先、1922年(大正11)にファシスト党を率いたムッソリーニが政権を握り、しだいに一党独裁体制を固めましたが、1935年(昭和10)にはエチオピア侵略を開始しました。1936年(昭和11)、スペインでフランコが民族主義勢力を率いて人民戦線内閣に反乱を起こすと(スペイン内乱)、ドイツ・イタリアはともにフランコ派に軍事援助を与え、それを通じて両国は手を結び、いわゆるベルリン・ローマ枢軸が結成されました。

 

このころ、東アジアにおいては、日本が中国政策を巡りアメリカ・イギリスと対立を深めはじめていました。1934年(昭和9)、日本は単独でワシントン海軍軍縮条約を廃棄し、ついで1936年(昭和11)には、ロンドン海軍軍縮会議からも脱退しました。その結果、国際的に孤立した日本は、ヨーロッパの「現状打破勢力」たるドイツ・イタリアに接近を図ったのでした。

 

他方、レーニンの死後、権力を掌握したスターリンの元で、共産党による一党独裁体制を強めていたソ連は、5ヶ年計画を通じて社会主義国家として国力を増大させ、1934年国際連盟に加盟して国際社会で大きな発言力をもつ様になりました。そして人民戦線の結成などにより、国際共産主義(コミンテルン)の運動を活発に進めました。同時に、スターリンは 国内において反対派を徹底的に粛清し、独裁者としての地位を固めたのでした。

 

こうしたソ連の動きに脅威を感じた日本は、広田弘毅内閣の時、1936年(昭和11)の今日、ソ連とコミンテルンの活動に共同で対抗するために、ドイツとの間に日独防共協定を結びました。この協定は正式には「共産主義インターナショナル(コミンテルン)に対する日独協定」と呼ばれています。日本側では陸軍の主導(とくにドイツ駐在日本陸軍武官大島浩)により、そしてドイツ側では総統ヒトラーの外交顧問リッベントロップが積極的に推進しました。日本外務省は、広田内閣の三原則中の「防共外交」の立場からこれを支持しました。本文三ヶ条、秘密付属協定三ヶ条からなり、有効期間5年でした。本文ではコミンテルンの活動防止のために両国が協力しあう趣旨が定められていましたが、ソ連の国名を出すことは避けられていました。日独両国の思惑が交錯し曖昧な協定ということもあり、国内外で不評でした。

 

後年、この日独防共協定にはイタリアも参加して日独伊三国防共協定となりました。そして、1937年(昭和12)、イタリアも国際連盟を脱退したのでした。

 

こうして、 ワシントン体制とヴェルサイユ供制を打破して「世界新秩序」をめざす日本・ドイツ・イタリアの3国によって、いわゆる枢軸陣営(すうじくじんえい)が形成されました。このように世界には枢軸諸国、アメリカ・イギリス・フランスなどの自由主義・民主主義諸国、社会主義国であるソ連という三つの勢力が対立して、国際情勢はしだいに流動化を深めていったのでした。

 

今日はここまでです。

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