11月5日 <坂上田村麻呂、二代目の征夷大将軍に任ぜられる(797年=延暦16)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

桓武天皇は、長岡京そして平安京へと遷都された事は、10月22日の当blogの記事にしました。その記事はこちらです。→https://nihonshi.info/10月22日 <桓武天皇が、山背の新京に遷られまし/

 

今日の記事はほぼ同じ時代の話です。

桓武天皇は、東北地方の蝦夷(えみし)の支配に力を注がれました。

 

東北地方に対する動きとしては、奈良時代が始まる前の大和朝廷のころからあり、647年(大化3)に渟足柵(ぬたりのさく)、翌648年(大化4)に磐舟柵(いわふねのさく)が築造されています。渟足柵は新潟県新潟市ではないか?と考えられていますが、位置は判っていません。磐舟柵は新潟県村上市近辺ではないか?と考えられていますが、こちらも位置は判っていません。この2つの築造物は、東北に攻めていったというものではなく、蝦夷の襲来に備えた、という意味付けのものでした。

 

奈良時代に入ると712年(和銅5)9月には出羽国が設置され、内地から百姓が移民した記録があります。この奈良時代以降、東北では各地に置かれた城柵(じょうさく)を行政の拠点として、東国などの各地から移住させた農民(柵戸:さくこ、きのへ、きへなどと読まれ、城柵とセットになった農民のこと)による開拓を進める一方、帰順した蝦夷を国内各地に俘囚(律令国家に帰属した蝦夷に対する呼称です)として移住させ、蝦夷の地への律令国家の浸透がじんわりと図られていったのです。

 

ところが780年(宝亀11)、光仁天皇のとき、基準した蝦夷で郡司に任じられていた伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が乱を起こし、多賀城を落とすほどの大きな内乱に発展しました。これがきっかけとなり、蝦夷を軍事的に制圧するための大軍が継続的に送り込まれ、東北地方は30年以上にわたって内乱状態が続きました。

 

桓武天皇は788年(延暦7)、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とし、翌789年(延暦8)、大軍を送り込んで北上川中流の胆沢(いさわ)地方の蝦夷勢力を制圧しようとしましたが、蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)の活躍もあり、征東軍は大敗を喫しました。これではいか〜ん、という事になったのか、次は準備をしっかりして794年(延暦13)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大使(征夷大将軍)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を副使として大軍を送り込み、一定の成果を得ました。

 

797年(延暦16)の今日、坂上田村麻呂は二代目の征夷大将軍に任ぜられます。坂上田村麻呂は蝦夷の攻撃に全力を尽くしたことから、桓武天皇の信任もとても厚かったのでした。

 

そして801年(延暦20)に蝦夷征討を行い、翌802年(延暦21)には胆沢城(いさわじょう:岩手県奥州市)を築いて、阿弖流為を帰順させ胆沢地方を平定し、更に翌803年(延暦22)には志波城(しわじょう:岩手県盛岡辺り)を築造しました。この結果、東北は北上川の上流地域まで、日本海側でも米代川流域まで律令国家の支配権となったのです。

 

坂上田村麻呂はこの功績により、正三位大納言という非常に高い地位を頂くことになるのです。

 

この桓武天皇が推し進めた2大政策「造都」と「征夷」とは、国家財政やそれをささえた民衆への大きな負担を伴うものでした。そして805年(延暦24)、桓武天皇は徳政相論(とくせいそうろん)と呼ばれる議論を裁定し、ついにこの2大政策を止める事を決定しました。この影には、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の有名な

「天下の民が苦しむところは軍事と造作である。」

と意見したことがあったのでした。こうして、東北に大軍を送り込むことは打ち切られたのでした。

 

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