2月19日 <大塩平八郎の乱が勃発(1837年=天保8)>

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1837年(天保8)のこの日、大坂で大塩平八郎の乱が起きました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

江戸時代の天保期、毎年の様に米の不作(凶作)が続いていました。米の収穫は平年の半分以下で、厳しい飢饉(天保の大飢饉)となっていたのです。農村や都市での百姓一揆や打ちこわしが年間100件を超えたほどです。

 

大坂でも飢饉の影響は大きく、餓死者が相次いでいました。しかし、豪商達は米を買い占め暴利をむさぼり、また大坂町奉行所は人民の救済策をとらず、幕府の命を受け米を大量に江戸へ廻送していたのです。

 

大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、大飢鐘で大坂市中にさえ餓死者が続出する惨状に直面し、時の東町奉行跡部山城守良弼(あとべやましろのかみよしすけ)にしばしば救急策を上申しましたが、まったく顧みられないばかりか、身分を弁えぬ(わきまえぬ)不届者と叱責されたりしたのでした。

 

こうした状態になって「知行合一」を学問の根本義とする平八郎は、ついに意を決して、これらの無能な官吏や・強欲な商人たちに天誅を加えて窮民を救おうと決意し、ひそかに門下の与力・同心および近在の富農二十数名と共謀し1837年(天保8)の今日、決起することにしました。

 

その数日前、平八郎はみずからの蔵書5万冊をすべて売り払って金にかえ(六百数十両=現在の貨幣価値で6,500万になったそうです)、これを窮民一万人に金一朱ずつ分配し、さらに「四海こんきういたし候ハ、天禄なかくたゝん」の句に始まる長文の檄文をひそかに近在の農村に配布して、挙兵の理由を説明するとともに、貧農たちが挙兵に応じるように呼びかけていたのでした。

 

平八郎のはじめの計画では、2月19日に新任の西町奉行堀伊賀守(ほりいがのかみ)が、恒例として先任の東町奉行跡部山城守の案内で天満を巡視し、ともに申刻(午後四時)に大塩邸の向屋敷、朝岡助之丞方で休息する事になっていたので、その時にわかに兵を起して一挙に両町奉行を倒し、次いで町々に火を放って豪家を襲い、その金銭や穀物を散じて窮民に分配しようとするものでした。

 

ところが、挙兵の前日、仲間だと思っていた同心の、平山助次郎・吉見九郎右衛門らが変心して奉行所に密告したため、計画が未然に暴露してしまったのです。

 

そのため平八郎は急遽予定を変更して直ちに蜂起する事とし、朝8時ごろ自邸に火をかけて行動を開始しました。この火を見て、かねて平八郎から天満に火の手が上がればすぐに駆けつけよと言われていた近在の農民たちが、いち早く駆けつけたのて一党は100人程の勢力になりました。

 

一党は「救民」の旗印をかかげて、大筒を引きながら進撃し、手あたり次第に大筒をぶっ放したり火矢を放ったりして、天満一帯を火の海にしながら正午ごろ船場に進出しました。この頃には弥次馬も加わって一党の勢力は300人程になっていました。

 

彼らは鴻池屋その他の豪商を軒並みに襲って金穀を路上に散じ、窮民のとるに任せながら進みました。この頃ようやく両町奉行は城兵の加勢を得て鎮圧に乗り出してきました。烏合の衆にすぎない大塩方は、この鎮圧軍の出動のまえに、わずか二度の小規模な砲撃戦を行なっただけて、その日の夕刻前には完全に潰滅してしまいました。

 

一党は四散するし平八郎らもまたその場から姿を消し、騒動としてはこれで終ったのでしたが、砲火のために起った火災は翌日の夜まて燃え続け、焼失家屋は家数3,389、世帯数12,578をはじめとして、その範囲は全市街地のほぼ5分の1に及びました。

 

事件後の厳重な探索で首謀者はつぎつぎに自首・自殺あるいは逮捕されましたが、平八郎父子の行方だけは容易に知れず、人心の不安は静まりませんでした。しかし約40日後の3月27日、平八郎父子が市中靱油掛町の町家に潜伏していることが探知され、逮捕に向かった幕吏の包囲の中に、平八郎父子は隠れ家に火を放ってその中に自刃し、焼けただれた死体となって発見されました(実際には、火薬を用いて自殺し、その遺体は顔の判別も不可能な状態であったそうです )。

 

こうして騒動は完全に終ったのですが、この事件が、幕府の重要な直轄地である天下の台所と謳われた大坂て起ったこと、さらに首謀者が当時退職していたとはいえ、かつては幕藩体制の維持を直接的な任務とする町与力の職にあった者であり、さらに知名度の高い陽明学者であったことから、その影響は甚大でした。

 

事件の噂はたちまち全国にひろがり、かねてから圧政に苦しんでいた広範な民衆に、より一層幕藩体制への批判に目を向けさせ、さらには反幕的行動にさえ立ちあがらせることになりました。中でも、同年4月の備後三原の一揆、6月の越後柏崎における国学者生田万の乱、7月の摂津能勢の山田屋大助の騒動などは、いずれも「大塩門弟」とか「大塩残党」などの旗印を掲げており、佐藤信淵などもその著述に「四海困窮せば」という平八郎の檄文冒頭の一句を、好んでしばしば襲用している程で、その影響がいかに広範かつ深刻であったかを知ることが出来ます。

 

この乱の鎮圧の指揮をとった跡部・堀両奉行ともはげしい砲声に驚奔する馬から振り落とされるという醜態をさらし、大坂市民からは

「大坂天満の真中で、馬から逆さに落ちた時、こんな弱い武士見た事ァない。鼻紙三帖唯捨た」

と嘲笑されたそうです。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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