5月3日 <奥羽25藩が同盟、奥羽列藩同盟の成立(1868年=明治元)>

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1868年(明治元)のこの日、奥羽25藩が同盟し、奥羽列藩同盟を結成しました。次いで庄内・長岡など6藩も加盟し、31藩の奥羽越列藩同盟へと発展しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

明治新政府が、徳川慶喜を政権に加えず、彼に対して、辞官納地を要求したことは旧幕臣や会津・桑名両藩士たちを激しく憤らせました。

一旦、大坂に引き上げた慶喜は、1868年(明治元)1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて上京しようとし、これを迎え撃った薩長両藩を中心とする新政府軍との間に鳥羽・伏見の戦いが起こり、ここに戊辰戦争が勃発しました。

あ、戊辰戦争というのは、その起こった1868年が干支でいうと戊辰の年に当たるので、それに由来して戊辰戦争と呼ばれたのです。

 

鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、江戸に引き上げた慶喜を「朝敵」として征討の軍を起こし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破り、江戸へと進攻しました。

すでに、戦意を失っていた慶喜は恭順の意を示し、同年4月、新政府軍は戦うこと無く江戸城を接収しました。

 

ところが、会津藩はなお新政府に抵抗する姿勢を示し、仙台藩など奥羽諸藩と北越諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を支援しました。

本日の記事は、この奥羽越列藩同盟の話です。

すなわち、奥羽越列藩同盟は、戊辰戦争の時に明治新政府に対抗して結ばれた奥羽・北越諸藩の同盟なのです。

 

1868年(明治元)に、会津藩追討令を受けた奥羽諸藩は、14藩連署の会津藩赦免願が鎮撫総督府に拒否されると、同年のこの日、奥羽25藩による同盟を結成しました。これを奥羽列藩同盟と呼びます。

次いで、長岡などの北越6藩も加わり、同年5月6日には仙台藩を盟主とした31藩の奥羽越列藩同盟へと発展しました。

ところが、新政府軍の進攻で敗北や脱落があいつぎ、6月には輪王寺宮を軍事総督に迎えましたが、同年9月に仙台・米沢両藩が降伏して同盟は自然瓦解してしまいました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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