1859年(安政6)のこの日、横浜港が開港されオープンな貿易が始まりました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
今日(6月2日)は横浜市の開港記念日です。その経緯を見てみましょう。
1858年(安政5)、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で清國がイギリス・フランスに敗北して天津条約(てんしんじょうやく)を結んだことが伝えられると、アメリカの初代駐日総領事のハリスはこれを利用してイギリス・フランスの脅威を幕府に説きました。そうして早く通商条約に調印するように、と迫ったのです。
大老に就任したばかりの井伊直弼は、天皇の勅許を得られないまま、同年6月、日米修好通商条約に調印しました。
幕府はついで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました(安政の五カ国条約)。
この条約により、日本はそれまでの長崎を窓口とした極めて限定的な貿易から、上記五カ国と本格的な貿易へと環境がかわり、資本主義的世界市場の中に組み込まれました。
当初は、開港する場所として下田・箱館港のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫と決められました(下田は神奈川港の開港後6ヶ月で閉鎖)。
神奈川については、もともと交通量の多い宿場であったこともあったこともあり、松代藩士の佐久間象山(さくましょうざん)、外国奉行の岩瀬忠震(いわせただなり)らの意見をうけ、近くの横浜村に開港場所が変更されました。これに対して諸外国公使はあくまで神奈川の開港を求め、神奈川宿周辺に領事館を置きました。
横浜村は街道からもはずれた小さな農漁村にすぎませんでしたが、同年の春から急きょ突貫工事を行い、外国人居館や商家、そして遊女屋が作られました。そこには、幕府から出された、横浜への出店奨励の御触書きに触発された江戸の豪商や周辺の廻船問屋、さらには一攫千金を目論む商人があつまり、にわかに横浜が活気を帯びていったのです。そうして1859年(安政6)6月2日、横浜が開港されました。
こうして開港したものの、この日入港したのはアメリカ船ワントル号とオランダ船シキルレル号とのわずか2隻だけでした。
貿易の輸出入品の取引は、居留地において外国商人と日本人の売込商(うりこみしょう)と呼ばれた輸出品を売り込む貿易商や引取商(ひきとりしょう)と呼ばれた輸入品を買い取る日本人商人との間で銀貨を用いて行われました。
輸出入額では横浜が、取引の相手国ではイギリスが圧倒的に多かったのです。
日本からの輸出品は、生糸が80%におよび、ついで茶・蚕卵紙(さんらんし)・海産物などの半製品・食料品が多く、輸入品は毛織物・綿織物などの繊維製品が70%を越え、ついで鉄砲・艦船などの軍需品が多かった、と記録にあります。
開港後、居留地での取引が活発になると、当初神奈川港にこだわっていた諸外国も横浜開港を受け入れざるを得なくなっってしまった…そうです。
以下に、1865年頃の貿易のデータがありましたので整理しました。国籍別ではイギリスが本当に多いです。現在は斜陽国ですが、昔は元気がありましたからねぇ。
<主な輸出入品の割合>
輸出品
- 生糸 :79.4%
- 茶 :10.5%
- 蚕卵紙: 3.9%
- 海産物: 2.9%
- その他: 3.3%
輸入品
- 毛織物:40.3%
- 綿織物:33.5%
- 武器 : 7.0%
- 艦船 : 6.3%
- 綿糸 : 5.8%
- その他: 7.1%
<横浜港に於ける各国の取扱高の割合>
船舶の国籍別
- イギリス:86.0%
- フランス: 8.0%
- オランダ: 4.0%
- アメリカ: 1.5%
- その他 : 0.5%
商館の国籍別
- イギリス:63.0%
- アメリカ:15.0%
- フランス:12.7%
- オランダ: 7.0%
- その他 : 2.3%
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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