6月 出来事

6月4日 <秀吉、清水宗治と講和(1582年=天正10)>


今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

これは3分程度で読める記事です。

1.出来事ピックアップ

 

1582年(天正)の今日、備中国高松城の水攻めを行っていた秀吉は、交戦相手の清水長左衛門尉宗治と講和を結びました。

 

2.解説

 

この出来事には伏線があります。拙blogでは今回は取り上げませんでしたが、1582年(天正10)6月2日に織田信長は明智光秀に命を絶たれているのです。

そうです、「本能寺の変」です。

 

羽柴秀吉は、織田信長が討たれたという情報を、事件の翌日6月3日には入手していました。

 

その時、秀吉は備中国高松城を攻略中でした。高松城の水攻めと呼ばれる、秀吉が高松城を水攻めによって包囲した戦いです。

 

この日から遡ること1ヶ月弱、同年5月8日から造成を開始し、わずか12日で完成した高松城をぐるりと囲む堤防は、足守川の流れをせき止め、また梅雨の時期も重なったこともあり、瞬く間に高松城は文字通り湖の中の孤島と化してしまったのです。

 

そうした中、高松城主清水宗治の主家の毛利家(毛利輝元)との講和の条件を探っていた秀吉でしたが、自らの主君織田信長が討たれたため、色々な意味で講和を急がなくてはなりませんでした。それは、信長という後ろ盾を失ったことが露見しないうちに講和しなければ、こんどは自らが攻められる…ということと、明智光秀を一刻も早く討ちたい…ということでした。

 

秀吉は毛利側の軍僧である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を仲介にし、「備中・美作・伯耆の3か国割譲と城主清水宗治の切腹」を和睦条件として提示しました。それまでの秀吉の要求「備中・備後・美作・伯耆・出雲の5か国)割譲と城主清水宗治の切腹」から一歩譲歩した内容でした。

 

そして1582年(天正10)6月4日、毛利方もこの条件を受け入れ、和睦が成立したのでした。

 

その後、秀吉は中国大返しと後世呼ばれる東進を始めます。勿論、明智光秀を討つためでした。この1582年(天正10)の今日、という日は、秀吉のとっても大きな転機となる日だったのです。

 

この時の高松城主は、その立ち居振る舞いの非常に立派な武士として、知られていますが、今回の講和後のことがWikipediaに書かれていますので、以下にご紹介申し上げます。

清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整えた。

その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わした。そして舞を踊った後

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

という辞世の句をしたため、自害した。他3人も次々と自害を遂げ、4人の介錯を行った國府市正も自刃した。秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛した。

(Wikipedia「備中高松城の戦い」から引用)

 

今日はここまでです。

広告




こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?↓↓↓

日本ブログ村

人気ブログランキング

-6月, 出来事
-

Translate »