8月3日 <北条時頼、道元を招く(1247年=宝治元)>

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1247年(宝治元)のこの日、鎌倉幕府執権の北条時頼は道元を招き、道元は約半年のあいだ鎌倉に滞在して布教に努めました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

道元は、鎌倉時代中期の僧侶で日本曹洞宗の開祖です。

京都に生まれた道元は、幼少のとき父母に死別し、13歳で比叡山で出家し、天台教学を学びました。

「人は本来、仏であるのに修行しなければならない」という疑問を解くために山を下り、栄西の弟子明全(みょうぜん)のもとに参じた道元は、1223年(貞応2)、その明全とともに入宋し、5年間の滞在中に天童山の如浄のもとで修行し得悟したのです。

 

そして帰国後「晋勧坐禅儀」を著し、坐禅の方法などを説きました。

一時期建仁寺に身を寄せましたが深草に移り、1232年(天福元)興聖寺を開き、主著の「正法眼蔵」の著述を開始し、禅の普及に努めますが、その間比叡山や東福寺といった旧仏教勢力からの圧迫があったため、1243年(寛元元)門弟波多野義重の招きで越前志比荘に移り永平寺を開いたのです。

そこで、道元は、厳しい修行のもとに教団を形成しました。

その教えは、易行・他力の教えが優勢ななかにあって、ひたすら坐禅に打ち込み「只管打坐(しかんだざ)」その結果悟りを開く、という厳しい自力救済に基づくもので、また在家のままでの悟りを否定し、出家主義を貫いたのも特徴の一つでした。

道元は1247年(宝治元)、それまで度々の幕府要人の招きを断ってきた道元でしたが、義重の勧めにより永平寺を出て鎌倉に向かいました。そして、同年のこの日、鎌倉幕府北条時頼は道元を招き、道元は半年の間鎌倉に滞在して布教を行ったのでした。

晩年の1253年(建長5)、道元は永平寺の住職を弟子の孤雲懐奘に譲り、京都で没しました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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