9月15日 <関ヶ原の戦い、その2(1600年=慶長5)>

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1600年(慶長5)のこの日、豊臣秀吉没後、相対的にその地位が向上した徳川家康を中心とする東軍と、毛利輝元らを中心とする西軍とが美濃の関ヶ原で激突しました。世にいう天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」です。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

関ヶ原の戦いは以前にも記事にしていますが、今回は、少し前の時期から通じてみた戦いの位置づけについてです。

 

若かりし頃は、今川家の人質として苦労したものの、1560年(永禄3)に起こった桶狭間の戦いの後は織田信長と同盟を組み、東海地方で勢力を振るった徳川家康は、信長亡きあとは豊臣政権に与しました。

1590年(天正18)に北条氏滅亡後は関東に移封されて、約250万石の領地を支配する大大名となった家康は、江戸を拠点としてその巨大な領国経営を行いました。江戸城の拡大・整備や神田上水を引くなど町づくりを推し進める一方、家臣団を周辺に配置し足場を固めました。

 

豊臣政権にあっては、五大老の筆頭として重きをなしていた家康は、1598年(慶長3)に豊臣秀吉が死去すると、その存在感をグッと増していきました。

そうした家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた腕っこき実務官僚の石田三成(いしだみつなり。五奉行の一人)でした。三成は小西行長(こにしゆきなが)らとともに五大老の一人毛利輝元(もうりてるもと)を盟主として、宇喜多秀家(うきたひでいえ)・島津義弘(しまづよしひろ)らの西国諸大名を味方につけて挙兵しました。

これに対し、家康と彼に従う福島正則(ふくしままさのり)・加藤清正(かとうきよまさ)・黒田長政(くろだながまさ)らの諸大名が東軍として兵を挙げました。石田三成と通じた上杉景勝(うえすぎかげかつ)との緒戦を片付けた東軍は、1600年(慶長5)のこの日、美濃の関ヶ原で西軍と激突しました。東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いと呼ばれる関ヶ原の戦いです。

 

この戦いは、小早川秀秋(こばやかわひであき)の内応によって西軍はボロボロに負けてしまったのでした。

 

戦後処理は、石田三成・小西行長は京都で処刑、宇喜多秀家は八丈島に配流。西軍諸大名90家・440万石を改易(領地没収)し、毛利輝元は120→37万石に、上杉景勝も120→30万石に減封(領地削減)されました。東軍の将士はその分、加増され、新たに28の譜代大名が取り立てられたのでした。

このように、豊臣政権から徳川政権への大きな変換点となったのが関ヶ原の戦いだったのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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