今日という日はどんな日でしょうか?
日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。
960年(天徳4)のこの日、平安遷都以来はじめて内裏が焼失しました。宮中の左兵衛人(さひょうえじん:守兵の詰所のことです)から出火し、宮殿や累代の宝物などが全て灰燼に帰してしまったのでした。
出火原因ははっきりしていません。「古事談(こじだん)」によれば、鳥が檜皮(ひわだ)をくわえて飛んできて灯明に差し入れたので出火した、と言っていますが、これはどうみても守兵の責任のがれのためにでっち上げた作り話であると考えられます。
出火当時は、村上天皇は清涼殿でおやすみになられていました。侍臣らの騒ぎに驚き、摂政の藤原忠平(ふじわらのただひら)に事情を尋ねると、左兵衛陣が全焼したというではありませんか。そこで、天皇は御自ら指揮して延焼をくい止め、温明殿(うんめいでん)の宝物を搬出させようとなさいましたが、火勢が強く、酷く煙が充満していたので、消火はおろか宝物の搬出もままならなかったのでした。
侍臣たちは、天皇の身の安全のため、いったんは太政官府に天皇を避難させましたが
「ここは、内裏の鬼門にあたるから具合が悪い」
ということで、内裏の外にある摂政宅に避難させたそうです。
これがきっかけで、「里内裏」で政治が行われ、摂関が天皇を後見して実権を握るようになったのです。
村上天皇は、右大臣藤原忠明(ふじわらのただあき)に次の様にお語りになられたそうです(現代語ですが)。
「わたしは、不徳をもって久しく天皇の座に居り、この災難に遭遇した。じつに嘆かわしいことだ。」
そのとき、村上天皇は在位14年めで、そののちは7年続いただけでした。
これまでに、内裏での放火や失火などによる火事といえば、昨日の記事にもありましたが応天門や大極殿を焼失したことはありましたが、794年(延暦13)に平安遷都して以来166年めに内裏を全焼したのでした。
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さて、少し上に「里内裏」という言葉がありましたので、それについて以下に補足します。
里内裏とは、平安宮外に設けられた仮皇居の事をいいます。大内裏に対する表現です。今日ご紹介した960(天徳4)以降も、内裏焼失のため、天皇が一時的に大内裏外の後院(ごいん)もしくは御院に相当する臣下の私邸に滞在することは時々ありました。
一条天皇の時代には、御院以外の里第に遷御する例があり、里内裏が成立したと考えられます。内裏と里内裏とは併用されるようになり、鳥羽天皇の時代から、日常は里内裏に居住し、儀式・祭祀のときには内裏に赴くようになりました。そして内裏と同様の里内裏が造営され、本格的な皇居となっていったのでした。
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