1740年(元文5)のこの日)江戸幕府第8代将軍徳川吉宗は四男刑部卿宗尹を当主として一橋家を創立しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
この一橋家、受験日本史でもよく出て来る御三卿のうちにある家です。実はこの御三卿については、以前、清水家のことを記事にしており、その際に御三卿が始まった由来について次の様に書いています。
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗は、自分の血縁から御三家のような存在を作ろうと考えました。それは、江戸時代も中期になると御三家の血統も疎遠となり、将軍継嗣候補の資格に不備を生じたので、その欠陥を補い、さらに加えて御三家の制御を図る為であろうと考えられています。
そして吉宗は、
1731年(亨保16):吉宗の次男右衛門督宗武を田安家
1740年(元文5):吉宗の4男刑部卿宗尹を一橋家の二家を創立し、これを「御両卿」と称しました。
(拙Blog「12月2日 <清水家が創立し、御三卿が揃いました(1758年=宝暦8)>」から引用)
一橋家の名は、江戸城一橋門内に居住したことによります。
この御三卿から将軍職を出したのは、この一橋家のみで、第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜とを出しています。賄料として領知10万石を与えられましたが、大名の様に知行国があるのではなく、
- 武蔵
- 下野
- 下総
- 甲斐
- 和泉
- 播磨
- 備中
の7ヶ国に領地がありました。しかも、この地域は時期によって変更があり、武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中の8か国の中の22郡にバラバラと存在しました。
一つの藩として独立したのは江戸時代が終わってからの1868年(明治元)でした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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