1850年(嘉永3)のこの日、国定忠治が大戸で磔の刑に刑されました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
「赤城の山も今夜の限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前たちともわかれわかれになる首途(かどで)だ」
の名セリフで知られる新国劇の十八番の一つ「国定忠治」ですが、1850年(嘉永3)の今日、劇の主人公のモデルとなった国定忠治が大戸(群馬県吾妻郡吾妻町)で磔の刑に処せられました。
国定忠治は、江戸時代後期の俠客で、本名は長岡忠次郎です。
1810年(文化7)、上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)に生まれました。父は与五兵衛もしくは与五左衛門、富農であったそうです。隣村田部井には小作地もあったと記録にあります。曾祖父は田沼意知の家臣です。
1821年(文政11)19歳の時に賭博に手を出し、以来博徒となりました。彼は田部井村を根城として賭場を開帳し、国定村無宿の清五郎・新田郡三ッ木村無宿の文蔵・境村無宿の安五郎を代貸元とし、博奕渡世頭役となりました。
1834年(天保5)25歳の時に、三ッ木村の文蔵に加勢して島村博徒伊三郎と争い、伊三郎をの命を奪い、大前田英五郎のもとに投じ、出役に逮捕された文蔵奪還に失敗します。その後忠次は共謀の故をもって死罪仰せ付けられたのでした。
彼は赤城山中を棲家としていましたが、1842年(天保13)田部井村又八家て開帳した時、出役の道案内の命を奪ってしまいました。それがもとで探索が厳しくなり、信州路へ脱出を企て、大戸(群馬県吾妻郡吾妻町)の関所を破りました。その後3年間は信州にいましたが、1846年(弘化3)には帰っています。
しかし1850年(嘉永3)7月21日、脳溢血で倒れ、出役にアジトをおさえられ逮捕されてしまいました。一旦江戸に送られましたが、大戸の関所を破った罪を問われて大戸に移送され、同年のこの日、磔の刑に処されました。享年41歲でした。墓は佐波郡東村養寿寺(戒名長岡院法誉花楽居士)と伊勢崎市善応寺(戒名遊道花楽居士)にあ るそうです。
この国定忠治のエピソードに関してWikipediaに面白い記事がありました。以下に引用してご紹介申し上げます。
- 剣の腕前に自信があった忠治は当時日本一と評判の北辰一刀流へ道場破りとして乗り込み、真剣勝負で千葉周作と立ち合おうとするも忠治の構えから千葉は勝負の成り行きを見抜き早々にその場を立ち去る、荒立った忠治だったが門下生一同より諭された事で命拾いしたと悟り道場を後にする。
- 逸話の多い人物であるが、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。この逸話は山雨楼主人こと村本喜代作の『遠州侠客伝』に拠る。
- 信州に逃げている忠治が地元の親分の家にワラジを脱いだ際、親分の女房が「このごろ旅人が多くて遣り繰りが大変だ」と愚痴をこぼした。これを聞いた忠治は「俺は十五の時から貰い飯で育った。米の値段は分からねえ。それに生まれつき遠慮は知らねえ」と塩鮭一匹を丸々焼かせて、大きな黒椀で十数杯の飯をムリヤリに詰め込んで女房をドギマギさせたという話が残っている(出典は増田知哉の「清水次郎長とその周辺」1974)。
- 喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。
- なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」の仲裁により平成19年(2007年)6月2日の手打ち式で170年越しに和解した。
(Wikipedia「国定忠治」から引用)
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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