1778年(安永7)のこの日、「無宿者は見つけ次第捕らえ、懲らしめのため佐渡に送る」という触れ書きを出しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
無宿というのはホームレスではく(まぁ、ホームレス同様の人も居ましたが…)、江戸時代に人別帳から除外された者の事を指します。無宿は、その「人別帳から除外された」ということをもっと端的に表し「帳外」(ちょうはずれ)とも呼ばれていました。
無宿者となる経緯は、久離・勘当・欠落・追放刑・離農者など多様でした。そうした多様性は、無宿としての生き様にも現れ、無宿・野非人〈のひにん)と呼ばれる乞食同様の者から、江戸後期に社会問題となった長脇差を帯した無宿者まで、その実態には幅がありました。
おやおや、小生が小学生の頃に始まったテレビドラマですね、「木枯し紋次郎」。あの
「あっしにゃぁ関わりのねぇこって…」
とニヒルに言うのが流行りましたねぇ。
さて、その無宿ですが、本来は人返しされるべきものでしたが、幕府は、江戸で増え続ける無宿者の対策に手を焼き、取締を強化して逮捕、そのなかで身体の頑強な者を、佐渡金山に水替人足として送りましたが、1778年(安永7)のこの日、次のような触れ書きを出しました。
一、このごろ江戸およびその近国で多くの無宿者が横行し、火付け・盗賊を働き、時に喧嘩口論におよび、皆迷惑している。…(中略)…身元不明の者は一夜でも泊めぬようよくよく言いきかせ、無宿者は見つけ次第捕らえ、奉行所へ差し出すこと。もともと無宿者は、百姓は農業を怠り、町人はそれぞれの渡世をせず、身持ちがふしだらであるから無宿者になり、食い詰めると火付け・盗賊を働くので、こらしめのため佐渡に送るのである。
まぁ、こんな内容でした。
佐渡金山の人足は、地元の者が中心になって採鉱・精錬・水替を行ってきましたが、特に坑内で浸水した水を汲み上げる水替はきびしい重労働だったので、次第に人手不足になっていました。
そのため、勘定奉行で元佐渡奉行の石谷清昌(いしがやきよまさ)が
「無宿人の更生のために佐渡へ人足にやったらいかがなものか…」
と老中に建言したのが始まりで、佐渡奉行に掛け合って犯科歴のない者という条件で5〜60人程度送ることにしました。金山関係者や島民は、治安風紀が乱れる心配があるとして大反対でした。ところが、幕府は
「お仕置きであるから無給」
というメリットを前面に押し出し、この反対を押し切りました。金山関係者は、その重労働の水替人足として無宿者を受け入れることでしぶしぶ妥協したのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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