1月10日 <「愛国号」が登場(1932年=昭和7)>

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86年前のこの日、国防献金による戦闘機の献納運動による最初の献納機が「愛国号」と命名されました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

満州事変直後の一時期、日本国内は戦争支持熱が急激に高まりました。

 

1930年代はじめ、「東京朝日」「大坂朝日」「東京日日」「大阪毎日」の4大新聞は、いずれも発行部数が100〜150万部/日に達し、国内世論の形成に大きな影響力を持っていました。

満州事変(柳条溝事件)がおこると、これらの新聞は一斉に

「明らかに支那側の計画的行動」
「日本軍の強くて正しいことを徹底的に知らしめよ」

(1931年(昭和6)9月20日付「東京朝日新聞」夕刊)

と断定的な報道によって中国側を非難し、日本軍の行動を熱狂的に賛美するキャンペーンを展開しました。

現地から送られてきた報道号外の発行や、ニュース映画の上映などにより、満州各地をつぎつぎに占領する日本軍の様子が伝えられると、国民の興奮は一層高まっていきました。

 

第2次若槻内閣は事変の不拡大方針を内外に声明し、いかに日本軍の行動を抑えるか苦慮しましたが、多くの新聞は

「国民の要求するところは、ただわが政府当局が強硬以て時局の解決に当る以外にない。われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望するものである」

(1931年(昭和6)10月1日付「東京朝日新聞」社説)

といった調子で強硬方針の対応を主張したのです。

こうしたマスゴミの強硬な主張に支えられ、日本の関東軍は政府の不拡大方針を無視して、さらに軍事行動を拡大し続けたのでした。

 

また、軍やマスゴミは、日本軍の行動に興奮気味の国民に対して、慰問袋や慰問献金運動を積極的に推進しました。

その一環で、国防献金による戦闘機の献納運動が大々的に進められました。

 

そして1932年(昭和7)のこの日、最初の献納機

 

愛国1号
愛国2号

 

の命名式が代々木練兵場で開催されました。献納活動はその後も積極的に行われ、1945年(昭和20)の春頃まで続いて愛国7169号まで確認されています。また、献納機活動は陸軍の「愛国号」だけでなく、海軍でも「報国号」というネーミングで展開されました。

以下にその愛国号と当日の会場との写真を貼り付けておきますね。

<愛国1号「ユンカースK37」>

<愛国2号「ドルニエ・メールクール」>

<愛国号命名式の会場の様子>

 

この写真は、「陸軍愛国號献納機調査報告」というサイトからご提供頂いたものです。7,000機以上ある陸軍の愛国号に関して、満足に資料もない状態から丹念に調べ上げられ、1,600機以上のデータが収集されており、見事なサイトです。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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