1805年(文化2)のこの日、江戸幕府は、長崎奉行所でロシア使節のレザノフに対し通商の拒絶を申し渡しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
18世紀後半は、世界史の新たな転換期でした。
イギリスは17世紀半ばのピューリタン革命や名誉革命によって市民革命を達成し、アメリカは1776年に独立宣言を公布し、フランスでは1789年にフランス革命が勃発するなど、欧米諸国では近代市民社会の発展が進みました。
またイギリスでは1769年にワットが蒸気機関を実用化し、1785年にカートライトが力織機を発明して産業革命が始まりました。
そうした時期に、欧米列強は次第に東アジアに接近し、ロシア船やイギリス船が日本近海に出没するようになったのでした。
最初に日本と接触したのはロシアでした。ロシアは、シベリア開発のため日本との通商関係の樹立を目指し、日本人漂流民を保護して日本語の習得を図りました。
皇帝エカチェリーナ2世のもとで積極的な対外進出策をとったロシアは、千島列島を南下し、1778年(安永7)、蝦夷地で松前藩に通商を求め、翌年に松前藩が拒否する事件まで起こりました。
次いで、1792年(寛政4)には、ロシア使節のラクスマンが根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋太夫(だいこくやゆう)らを日本に送還するとともに、通商を求めて来ました。幕府は、外交交渉は長崎以外では行わないので長崎に行くように回答し、長崎港への入稿許可証である信牌(しんぱい)を与えました。
1804年(文化元)9月6日、ロシア使節のレザノフは、ラクスマンの持ち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めました。江戸幕府は、レザノフ一行に上陸を許可して宿舎を与えるという異例の処遇をしましたが、要求の内容にはなかなか返答しませんでした。そして来日後、約半年後の1805年(文化2)のこの日、長崎奉行所にレザノフを呼び出して、
「朝鮮・琉球・中国・オランダ以外とは新たに外交・通商関係をもたないのが祖法である」
として要求のすべての拒絶を申し渡しました。しかも、レザノフ側の装備も食料も不十分のまま追い返したのです。
その時の幕府の対応は、杉田玄白や司馬江漢らが批判したほど冷淡なものでした。
レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的な圧力をかける必要があると考え、一旦配下の海軍士官に樺太・蝦夷地の攻撃を指示しました。その後、曖昧な指令変更を残したまま帰途に着き、ペテルブルクへ戻る途中病死してしまいました。
Wikipediaにレザノフの肖像画がありましたが、イケメンですよ。画像は例の如くWikipediaからの無断借用です。
余談ですが…
この時、レザノフに対して通告したのは、江戸からやってきたおいて目付けの遠山金四郎景晋(とおやまきんしろうかげくに)で、この人物は、テレビの時代劇でお馴染みの「遠山の金さん」こと遠山景元の父親だったのですよ。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2017年記事:<治安維持法、衆議院で可決(1925年=大正14)>
今日はここまでです。
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