7月5日 <臨済宗の祖、栄西没(1215年=建保3)>

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1215年(建保3)のこの日、臨済宗の開祖である栄西が京都の建仁寺で没しました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

栄西は備中吉備津宮(びっちゅうきびつのみや)の神主の子で、11歳で仏門に入り、14歳のとき比叡山で受戒、以降、天台教学を学びました。

1168年(仁安3)入宋し、途中、俊乗房重源に会い、ともに天台山万年寺で羅漢に茶を供養し、禅を学んで帰国しました。

帰国後、堕落した日本の天台宗復興のため禅の必要を感じ、1187年(文治3)再び入宋します。天台山万年寺の虚庵懐敞から臨済禅を学び、その法脈を得て1191年(建久2)に帰国します。

 

帰国した栄西は京都で布教を試みましたが大日房能忍の無嗣承の禅と混同され、天台宗からの排斥によって禅宗停止が宣下されるなど、比叡山信徒による弾圧を受けます。それに対して栄西は「興禅護国論」を著して、禅宗が国家に必要な事を主張しました。

鎌倉に下った栄西は布教を行い、座禅を組んで、師から与えられた公案(問題)を考え抜いて悟りに達する、という厳しい修行方法が武士の気風と合致して多くの信者を得ました。1199年(正治元)には北条政子の帰依を受け寿福寺を建立、1202年(建仁2)には将軍源頼家の庇護を受けて京都に台(天台)・密(真言)・禅の三宗一致の建仁寺を建立します。

また、1206年(建永元)に重源の跡を継いで東大寺大勧進帳となり、その復興に尽くしました。

 

日本の仏教に大きな足跡を残した栄西ですが、1215年(建保3)のこの日、京都の建仁寺で没しました。

栄西の死後、禅宗は鎌倉幕府執権の北条氏の帰依をうけて大きく発展するのでした。

 

拙blogでは、栄西のことは以前にも書いており、メインの題材で取り上げた記事には

2月4日 <「茶は養生の仙薬なり。」栄西、源実朝に茶を勧める(1214年=建保2)>

があります。

栄西は、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って栽培を始め、茶を飲む習慣が貴族のみならず武士や庶民にも広まるきっかけを作り、著書にも「喫茶養生記」があるんですね。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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